付き合い遍歴 その13 相互侵略


前回の件があって以来、色々疲れてきてしまい、しばらく誰とも付き合わない日々が続いた。護の死のインパクトは、その後2人との付き合いを経て後もなお強く影響を及ぼしており、そこから俺自身を建て直すのには引き続き苦労が要ったし、そこへ持ってきてそのタイミングで、勤めていた会社が長野の上田市にある親会社に業務の大半を吸収されることとなり、俺の所属部署は親会社の広報付きとなって上田市の山奥へ異動になる予定だという話が出た。組織上は親会社への昇格異動なのだが、俺はその転勤話を蹴って会社を辞めた。

当時、俺は東京のクラブ界隈では少しは知られた顔だったし、田舎に越すのはゲイライフの終わりだと思ったからだ。もっと正直に言うと、セックスの機会が激減するだろうと思っていた。社会人として就職するのが30歳になってからと遅かったこともあり(その辺りのことはその6で触れた)、俺はキャリアを追及することには興味がなかったのもあって、俺にとってゲイライフは社会人としての順調さよりも大事だった。

しかし転職活動をした結果、ほどなく外資の製薬会社の広報に就いて、東京にい続けることができた。会社はグローバルで当時5万人弱の社員を抱える大手の製薬会社で、結果的にこの転職は興味のないキャリアアップに繋がった。

外資勤めにも慣れてきた頃、健二郎とバーで出会った。健二郎は、その時たまたま東京に来ていて、西日本に住む学生だった。学生といっても、健二郎は一旦東京の大学を卒業し、海外で仕事をした後、帰国して、資格を必要とする職業を志して地方の大学で学び直しているところで、歳は近い存在だった。疲れてきてしまってしばらく一人でいたのに、これがまた付き合う機会となったのだが、未だかつてないほど消耗する関係になるとは、その時の俺には知る由もなかった。

健二郎も俺も、プライドの高い人間だった。

健二郎は有名大学を出て海外キャリアもあるのが誇りで、ついでに言うと親は大学教授。しかし健次郎は飄々としたキャラクターをまとっていた。少なくとも彼の友人達からはそう捉えられていたことだろう。
が、一皮剥けば、何事をするにも一計を案じることに手抜かりなく、また、自分の優先的地位を確保するためには人への攻撃をも辞さない性質を持つ男だった。飄々とした表向きのキャラクターは、自分の頭の良さやキャリアは必死に獲得したものじゃなくて楽々なんですよ、というポテンシャルのアピールだったのかもしれない。

俺は、私生活の波はあったものの(これまでの遍歴を見返すとこの時点で既にありすぎだ)、社会人としては結果的に転職する度会社の規模も給料も上がって行き、出遅れた感を挽回して人並み以上にはなったと、自信を持ちつつあった。
そしてゲイパレード(当時はプライドウォークというよりゲイパレードと言う方が他者に分かりやすかった)でフロートパフォーマーを複数回務めたり、ゴーゴーやダンサーとしてビッグパーティーに出演したりと、その辺りの存在にも自負があった。
尤も、職業的にゴーゴーをやっていたのではなく、クラビングをする傍ら、興味のあるパーティーから声がかかると面白そうだからやる、という感じだったので、当時バー勤め等ではなく異性装をする男性が「趣味女(しゅみじょ 趣味で女装をする人の略)」と呼ばれていたのをもじって、「趣味ゴー」と自称していたりした。

さて、健二郎との付き合いだが、所謂遠距離というやつで、俺はようやく生活が安定してきてはいたが、それまで転居も転職も繰り返し、まだまだ金銭的余裕はなく、月一回会うのが精一杯だった。健二郎は歳近いとはいえ学生の身ということもあり、遠距離としては俺が基本的に向こうに行く形にしていた。よく、当時は新宿西口にあったバスターミナルから夜行バスに乗ったものだ。当時の夜行バスは今のような個室仕様もフルフラットシートもなく、道中は苦行だった。健次郎が俺の方に来ることもあったが、それは稀だった。

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