付き合い遍歴 その6 遠距離の果てに


宗成との関係が拗れ始めていた頃にバーで知り合った修とは、初めは友人関係だった。修は俺より3つ年上で、宗成より断然落ち着いており、宗成との間柄を相談するにつけ、親身になって俺の話を聞いてくれ、的確な答えを返してくれて、そのうち俺は修を好きになった。修は当時クラシックの楽器を扱う会社に勤めていて、自身も楽器演奏を嗜んでおり、宗成にはないそんな知的な面も、俺を惹きつけた。

俺は宗成と別れてすぐ、入れ替わるように修と付き合い始めた。友情から付き合いに発展したのは、これが最初で最後だ。結局修とは、ここから5年半付き合うことになる。全ての付き合いの中で、2番目に長く、従ってこのエピソードも長くなる。因みに最長は今だ。

修と付き合い始めたのは、俺が大学卒業前辺りから。卒業後2年ほどの間、俺は東京にいたまま司法浪人の身だったが、父の事業はバブル期にありがちだった投機案件に失敗して傾きかけており、東京暮らしは費用も嵩むので、大阪の実家に呼び戻されて勉強を続けることになった。初回の大学受験でトラウマを負い(詳細はこちらのページの『試験日の事件』を参照)、大学入学時に多浪した俺は、卒業時点で既に20代半ば過ぎだったが、そこから更に30歳までは司法試験に挑戦するという親との約束だった。そこから修とは遠距離で付き合った。当時合格率が2%を切ると言われていた司法試験を受け続け、結局合格叶わず諦めて就職先を探し、職を得て東京に戻ってくるまでのことだ。

修は優しかった。穏やかな性格で、知的な刺激もくれ、落ち着いて見えた一方で、俺が東京にいた頃はクラブに遊びに行くことも共通で楽しめたし、飲みに行っても楽しく、共通の友人もいて、スムーズな付き合いだった。少なくとも遠距離前は、そうだった。

遠距離になると、修とは電話や手紙、後年はポケベルでやり取りし(まだ携帯は一般化していなかった)、月一位では会った。俺はその頃真面目にパートナーシップというものを考えていて、長続きする関係とは、とか、お互いが成長するには、とか、そういうことを考えて遠距離を続けていた。修の態度や俺への想いも、近くにいた時とそう変わったようには思われなかった。

しかし実際のところ、修は次第に変わって行ったのだった。悪い方に。

心配になる兆候はあった。修はなまじ酒に強いので、バーでは昔から杯を重ねてよく飲んでいたが、クラブでもよく飲んでおり、さらには酒が足りないと、当時流行っていた首からミネラルウォーターのボトルをホルダーで提げるスタイルで、中身は焼酎を入れたペットボトルを持ち込んだり(クラブにもよるが当時は飲み物を持ち込むことは、水に関しては今ほど厳しく制限されていなかった)、ポケットにはスキットルボトルが忍ばせてあるなどした。
しかし、修は酔っても多少陽気になる位で、態度が変わったり何かしでかしたりということはなかったので、俺としては「飲み過ぎには気をつけなよ」位の認識でいた。

そして遠距離になってしばらくして、修はいつの間にか会社を辞めてしまっていた。俺がそれを知ったのは、共通の友人である正行からで、修本人から聞いたのではなかった。そんな展開だったので、辞めるかどうかなどの事前相談も俺にはなかった。それまでに「会社が嫌だ」などとこぼす言葉を聞いたことはあったが、切迫した様子ではなく、よくある愚痴レベルのことだと思っていた。
真偽を確かめようと修に聞くと、あっさり認め、辞めたと言う。理由を尋ねても判然としなかった。ただ辞めたかったから辞めただけのように見えた。

修は23区内にある実家暮らしで、仕事を辞めたからといってすぐ寝食に困る状況ではなかったので、そこは安心だった。が、修という人間がよく分からなくなって来、何か隔たりがあるなと感じた。同時期に、修は嗜んでいた楽器を弾くこともなくなり、以前は時折頼まれてやっていたオーケストラの助っ人も、しなくなった。

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