ゲイライフヒストリー


これまでの付き合いについて遍歴をまとめておいた。読むのはこちらから»

14歳頃~ゲイを自覚。葛藤は全くなし。「自分はゲイなんだな」→「じゃあゲイとして生きていくんだな」と、ただ思ったのみ。
17歳ゲイ雑誌を立ち読みしていて、書店を出たところで同い年(だと後で知る)の人に声をかけられる。生まれて初めて自分以外のゲイに接触。いい人だったとは思うが、高校生で鳥籠の中の鳥ゆえ、付き合いなどには至らず。
学生時代
~20代半ば
大学に入ってすぐ、ゲイ雑誌の文通欄で知り合った人と初めて付き合う。熱に浮かされたような状態は、快楽なのか苦痛なのか分からず。
秋には別れ、しばらくして知り合った当時の友人に、クリスマスパーティーに招かれ、旧にゲイの知り合いが増える。
その二次会で初めて新宿二丁目に行くが、パーティーで一番仲良くなった人が当時新宿二丁目で一番若者に人気の店"Zip"の常連であったため、そこでもまた知り合いが増え、あっさりとゲイの社交場にとけ込む。時はバブル後期。週に3度は飲みに行き、タクシーで帰宅していた。クラブに行き始めたのもこの頃。
ゴーゴーボーイを初めてやったのは、91年頃。今はなき西麻布のクラブ"Yellow"であったクリスマスイベントのドレスコードがホワイトで、全身白でコーディネートして踊りに行ったら、イベントオーガナイザーに声をかけられて、次週のストレート向けイベントでデビューした。
そんなことをしながらも、勉学はまともにこなしていた。プライベートでは、特定の人と付き合うと、大体年単位の付き合いをした。付き合いと付き合いの間は短かった結果、ほとんどの期間誰かしら相手がいたことになる。
ある年(はっきり覚えていないが92年頃?)、ロンドンにひと夏行き、そこでもクラブに出入りする。今のようにネットが普及していなかった時代、夕方町なかに出て行き、カフェでフリーペーパーを手にして情報を得、地図を頼りにソーホーのクラブに出かけて行った。踊っていてゴーゴーにスカウトされ、週末の夜にやった。
20代後半
~30歳
大阪に幽閉。目立ったゲイ活動も出来ず、ゲイライフ的には暗黒時代。付き合いは遠距離、クラブにもバーにも出向かず、当然ゴーゴーなどはかけらもせず。
小説を書いてゲイ雑誌『バディ』に投稿したところ、数度掲載され、年間の小説大賞佳作にも選ばれる(筆名 川原真茂)。
30歳頃東京に戻ってきてからややあって、5年余り付き合った相手と別れ、急に束縛がなくなると同時に、自分の存在を確かめる手段として、半年~1年ほどセックスに走った。恐らく人生の中で一番セックスをした時期。要するに、セックス依存症。
30代前半セックス依存症は、特定の人と付き合うようになって自然治癒。この頃、クラブにまた行くようになる。と同時に、交友関係も広がる。ゴーゴーの他、ダンスパフォーマンス・DJなどもやる。
30代中ばクラブでは踊りに行くだけでなく、ゴーゴー/ダンサー/パフォーマーとして出演し、楽しんでいた。パレードなどにもフロートに乗って出演。人との付き合いも落ち着いてきて、お互いに一生そのままだという約束を口に出したパートナーとも巡り合って、そのまま行くかと思われたが…
36歳パートナーがAIDSに起因する脳の病気で急逝。しばらく茫然自失となる。
37歳~40歳その後、他の人との付き合いを何回かするも、結果として試行錯誤に終わる。しかし、中にはその後よき友人になった人も。ゲイライフ的には、HIV/AIDSチャリティーイベント「せれぶれぃしょん2007」の役員としてイベントを企画・運営。テーマ音楽の作詞・作曲・編曲を手がけ、アンダーウェアメーカー Propagandaのファッションショーをプロデュース。ゴーゴーやダンスパフォーマンス方面では、やりたいことも一通りやり、そろそろ潮時かと、2006年の「第10回札幌レインボーマーチ」でのフロートパフォーマンスを最後に、ひっそり引退。職業的にやってきたことではなかったので、知る人ぞ知る的存在のままだった、はず。ビッグパーティーやゲイパレードのフロートに乗っていたとしても。
41歳~2009年が明けて間もなく、現在のパートナーじょにおと出会う。生真面目で建設的、ほがらかで愛情豊かなじょにおに感謝。
そして、もうやることもないかと思っていたが、友人のクラブパフォーマー霧彦に引っ張り出され、クラブイベントSafari - The Hunting -でゴーゴーボーイとして復活。しかしそれからは人の前に立つ目立った活動はなく、現在に至る。
47歳パートナーじょにおと共に同性婚人権救済申立の申立人となる

また、5年で日本のLGBT10,000人の写真を撮ることを目標に掲げるLGBT可視化プロジェクト"OUT IN JAPAN" #002にモデルとしてパートナーと参加。