映画レビュー 野火(2014)



(★★★★☆ 星4つ)

1959年の映画『野火』では見送られたカラー化だが、こちらでは大岡昇平の原作を基にしつつ、圧倒的な凄惨さと「肉感」をもってカラーで表現されている。

1959年版より良いと思われる点は、まず主演の演技力。この2014年版は塚本晋也監督が主演も務める形だが、作品として意図するとおりに自身で演じるというのは、自分でできていると思ったことの客観評価がなされ難いので、思うよりも難しいはずだ。そこを渾身でやって超えようとしている気概が伝わってくる。

1959年版で感じた、主人公田村はこれではまるでマヌケではないかと感じられた食い足りない点は、激しい戦場で疲弊した無力感に変わっている。といっても、観客が「田村はなぜもっとこう行動できないのか」と歯がゆく思うシーンもあり、インテリの物理的・肉体的無力を感じさせることも忘れられていない。そして、行軍(というよりパロンポンへの撤退)の様子の必死さは、映像のリアリティーとともに、のどかな遠足から生死の縁をさ迷う危うい稜線になった。それだけでも、『野火』の名誉回復というものだ。

戦争は悲惨だ悲惨だと散々訴えられながら、戦争映画において、精神的に追い込まれることは過去多々描かれながら、物理的・肉体的悲惨画がきっちり表現されていることは、そうなかったと思う。生還者の体験談などを読み聞きしても、そこは受け手の想像力に訴えかけられている点で、浄化されてしまう。
そこをこれでもかと描き出す本作の凄みは、もっと評価されてよいと思う。大岡昇平の原作は文句なく素晴らしいが、そこは小説ならではの、内省への落とし込みが主眼となっている点で、「なぜそこまで追い込まれるのか」という戦争の根源的悲惨を知るには、こうした本作のような描き込みは必要だ。ホラー映画ファンが本作を観れば、その猟奇趣味を満足させるシーンがたくさん出てくるが、これは猟奇趣味ではない。肉体の崩壊を技術で十分に表現することのできる時代になって、それを戦争のリアルの表現に真面目に使う、という、人がやってこなかったがいつかは必要だったはずのことを、この映画は果たしている。

無論、人の狡さ、エゴ、生き抜こうとする攻防と疑心暗鬼もこの映画では描き出されている。それが映画の骨子であり、それがなければ、上段のスプラッター的要素でこの映画は色物になってしまっただろう。中村達也やリリー・フランキーの演技が光る。外道を演じさせればリリー・フランキーは第一級。

一方、原作よりは印象が薄くなったと思われるのは、やはり主人公の心の動き。教会に迷い込んだシーンは、大岡昇平の作品を知る者なら、キリスト教の信仰、そして「神の目」の存在を即座に思い浮かべることができるが、そうでなければ、たまたまそこに行った、というだけにしか見えないかもしれない。そして、ネタバレ防止のため詳述は避けるが、戦場でのラストシーンで「なぜそうしなければならなかったのか」については、原作での宗教観やそれに基づく倫理観、主人公の心理的変遷を基にしているはずだが、それを映画のみからは感じ取りにくかった。

綺麗事になりがちな戦争をこれでもかと映像で表現したことで、本作は原作小説や1959年版に足りなかった点を補って余りある。知るべき・観るべき映画だが、残酷なシーンに耐性のない人には難しいだろう。が、実際の戦争とは、そんな耐性などお構いなしに誰もが放り込まれたのだ。この作品が描いたが、とても描ききれなかった酸鼻極まる現実に。(2020/3/4 記)