ブックレビュー リチャード・ブローティガン


芝生の復讐


(★★☆☆☆ 星2つ)

いきなり巻末の解説からの引用だが、そこには訳者藤本和子の労をねぎらったうえでこうある。

(訳者の翻訳とあとがき)がなければ、ブローティガンは日本でも真価を理解されないまま、単にちょっとシュールで幻想的なことを書くユーモア作家として面白がられ、すぐに忘れられていたかもしれない。
私は藤本和子のいなかったアメリカの読者を、気の毒に思う。

と。要するにそんな作家だ。アメリカの読者に翻訳者がいなくて残念とは皮肉だろうか? それはそうと、この本は短篇集なのだが、童話の欠片のような書き散らしがあったり、文庫本で2ページにも足りないような「物語」があったりで、風変わりではあるけれどもそれを超えて訴えかけるものを感じ取るのは難しい。
日本でいうと、内田百閒に似ているけれども、内田百閒はもっと陰影を巧く使い分け、幻影に奥行きをもたせることに成功していて、それが故に作品が作品として成り立っていた。
それに比べるとブローティガンは、まるでこのブックカバーアートのような色褪せた写真のようで、平板すぎるのだ。俺にはおよそ趣味ではなかった。

因みにこのブローティガン、ビート作家の集うサンフランシスコに1956年に移り住むが、そこからは袂を分かって長い試作の時を過ごしたとか。その後『アメリカの鱒釣り』が200万部を売るベストセラーになるとのことだが、ウィキペディアには「『アメリカの鱒釣り』によって一躍ビート・ジェネレーションの作家の代表格として祭り上げられる」とある。
しかし、この短篇集『芝生の復讐』を読み始めるとすぐ分かるとおり、ブローティガンはビート作家ではない。もっとポエティックで、現実からの超越の仕方が寓話的。現実の激しさから何かを切り取ろうとするビートの切れ味はここにはない。そしてアシッドの臭いもアルコールの臭いもしない。

先の引用では「忘れられていたかもしれない」とあるが、ブローティガンは実際のところアメリカでは忘れられているようで、日本での評価の方がむしろ高いのだとか。1984年、ピストル自殺。発見されたのは自殺してから1ヶ月ほどしてからだった。(2015/4/12 記)