ブックレビュー 丸谷才一


笹まくら


(★★★★★ 星5つ)

日中関係がぎくしゃくし、右傾化も見られる昨今、このテーマの小説を読んでみることは必要ではないかと読んでみた。徴兵忌避をしていた戦争当時のエピソードと、その後大学職員として働く時代とを織り交ぜているのだが、思想的背景と別に、読み物としての小説という点でも優れていた。筋がよく練られていて、構成も面白い。過去と現在を頻繁にクロスオーバーする様が特徴的だ。人は過去の何かに思いを馳せる時、自分が今生きている時代とは別に、一瞬にしてその当時に意識が飛んでいたりするものだから、こうした書き方は特異というよりは、人間の精神生活の有様としては、ごく自然に思える。しかしかなりエキセントリックな書き方をしている所もあって、1箇所、これは本の落丁なのかどうなのかと悩むところさえあった。

ストーリーはリアリティーにあふれている。それは細部の書き込みもそうだし、舞台設定もプロットも緻密で、まさに人の人生を読んでいる感じがする。この本の最初の発行は昭和41年(俺の生まれた前年)なのだが、情緒的に流れて薄い書かれ方が多い最近の小説に比べると、迫力が圧倒的。

テーマとなっている兵役忌避だが、戦前の体制が崩壊した後もなお、兵役忌避者が社会的に白眼視されるイデオロギーに悩まされ、かつ実際上の不利益を被りながら生きている様は、日本の変遷を個人レベルにまで落とし込んで理解する必要性を感じさせる。この小説では、作者自身が実際上どのような思想的スタンスを取るのかについては直接的な主張を慎重に避けられていて、事実のみの描き込みに徹底し、この本をあくまで小説として成り立たせているように見える。
しかし、私的動機にせよ、思想的信条からにせよ、兵役を忌避した者の平和(または私的な静穏)への希求が社会的に許されなかったことから来る自責の念や苦悩をありありと描き出すことによって、真の人の幸福とは何かとか、社会的に自分が役立つべきという義務感と私的存立の保護を両立することとはとか、かつての私情と現在の婚姻関係とを自分のなかで切り分けることの難しさ、などの問題を読み手に突きつける。奥深く、意義深い人間小説で、すべての人に読んでもらいたい。(2013/2/14 記)