短編小説『誘蛾灯 Pt3』


誘蛾灯 Pt2から続く

さて、とりあえず今夜の飯をどうするか。少し思案して、俺には飯を食わせてくれる所があるじゃないか、と、俺は元バイト先の統合先店舗に電話した。幸い、統合前の元店長が出て、俺のことを覚えていた。ちょうど今夜はスタッフが急な病欠で、店はてんてこ舞いらしい。俺の希望どおり、すぐ今から臨時にヘルプで入ることになった。

俺は店に知り合いが客で来ていたら鉢合わせしたくなかったのと、まだ酔いが抜けきれない顔を見られるのはまずいので、マスクをしたうえで、前の店と作りが全く同じその店に入り、そのまま事務所に足を運んだ。キョトンとした顔つきで俺を迎えたフロアー担当の若い女に聞けば、元店長はキッチンにいると。声をかけると、俺には振り返りもせず、とりあえず入って洗い物を頼む、コックコートと靴はロッカー横、と言われた。着替えて手を洗い、洗い場へ行く。飯にありつくのは、この山場を超えてからになりそうだ。

落ち着いてきたのは、0時を回った頃だ。すっかり油臭くなった元店長は(元、元、と言うが、今は統合先のこの店の副店長らしい。失職は免れた格好だが、実質実働部隊としてやっていくしかないようだ)、もう上がると言う。元店長が退出してから、俺は洗い場を離れ、キッチンに行った。立ち仕事をする間に、夕方のハッピーアワーの酔いはすっかり抜けていた。2名残った調理担当のスタッフにあらためて挨拶し、俺が入っていた頃から変わらない定番メニューの一つに決めると、食材パックを取り出し、1品作って、洗い場の向かいにある予備の流しにステンレスの蓋をして、そこでそれを食う。

食っていると、いかにケンゴが俺のことを思いやって飯を作ってくれていたのかを、身に沁みて感じた。季節の食材。彩り。一人でなら買うこともないし、そもそも使い方を知らないスパイス。会社に行き、往復の通勤で疲れた身でさらに買い物をし、俺の分まで料理して、二人で向かい合って飯を食っていた。俺はそれを、ラッキーくらいにしか感じていなかった。そしてそれは今や、完全に過去だった。

背後で、「ジ」と短く焦げる音がした。振り返って床を見ると、でかい蝿が、誘蛾灯で焦げて丸まった羽根とは別に、脚を几帳面に折り畳み、床に落ちていた。死ぬのにその律儀さか、と思う間もなく、すぐに蝿は、床を掃いていたスタッフのデッキブラシで排水口に追いやられ、流されていった。

俺は、誘蛾灯を見やった。清々しく青白い光が、さっきの蝿の他にも、小さな羽虫や蛾を能率よく惹きつけては、殺している。よくよく見れば、きれいな光じゃないか。確か映画の『ザ・フライ』で、主人公が蝿と融合した後、誘蛾灯に魅了されるシーンがあったな、と思いながら。

俺は自分の食器を下げて、残っていた他の食器と一緒に洗い、排水口の屑を捨て、洗浄機のかごやら、洗剤補充用のプラスティックビーカーやらを、所定の場所に伏せた。フロアー担当に聞けば、客席には、一組の客がドリンクバーから持ってきたグラスを一つずつテーブルに残しているだけだとか。あれは手で洗って伏せればいいだろう。1時閉店までもうすぐだ。
俺は、本当は厨房に持ち込んではいけないことになっている自分のスマホをチェックした。何も通知はなかった。画面を落とすと、暗くなったガラス面に、天井の蛍光灯が反射している。

閉店時間ギリギリ前に最後の客は帰っていき、俺は下げられてきたグラスを2つ手で洗って、既に調理担当がクリーンナップしたガスコンロ周りの照明を落とし、次いで洗い場の照明のスイッチを切った。誘蛾灯は終夜点灯することになっていて、ガードワイヤー越しに青白い光を放ち続けている。

俺は、靴を自分のに履き替え、コックコートを脱いでロッカーの空きスペースに掛け、新しいタイムカードに名前を書いてパンチアウトした(入った時はあまりにもバタバタしていて、元店長から『タイムカードはあとで置いておくから、入り時間は手書きで』と言われていた)。店の鍵は明日またランチタイム前に入るスタッフが持ち、そのスタッフと一緒に厨房に通じる裏口から出ると、ドアが閉められる。誘蛾灯から届いていた青い光の幅が、ドアが閉められるにつれ細くなっていき、見えなくなった。

部屋に戻る前に、コンビニに寄って明日の朝飯を買った。冷蔵庫はないがエアコンはあるから、一晩くらいならもつだろうと、サンドイッチと、野菜ジュースのパックを選んだ。これからどうしようかということは、考えないことにした。考えても答えが出ないことについては考えない。そう決めると、頭から厄介事を完全に追い出せるのは、俺の特技だ。おかげで、不安で眠れなかったという経験は、まるでない。

部屋に戻り、裸電球をつける。賃貸住宅でよくある、照明は借り主が持ち込むことを前提にしたとりあえずの灯りで、もちろんLED球ではなく、伝統的な白熱球だ。これに触れたら、熱いだろうか。やけどをする程度には熱いに決まっている。でも、それは誘蛾灯ではないし、俺は蛾じゃないから、死にはしない。そういや、害虫だか寄生虫だか、そんなもの呼ばわりされたことはあったけれども、これでは死ねないのだ。

とりあえず、寝る。コートを畳に敷いて、鞄にスウェットを被せて枕に仕立てた。水銀灯の光が外から差してきて顔に当たるので、場所を押入れの近くに変えた。あの光は、白熱球よりは誘蛾灯に近いな。あれでも死ねないだろうけれど。そんなことを考えているうちに、眠くなってきた。明日からのことは、またどうにかなるだろう。

(完)