付き合い遍歴 その10 二人を死が分かつまで


突然の喪失に、俺は茫然自失となった。失った要因が結果としてAIDS脳症という事実にも打ちのめされた(発症した訳だから単なるHIV感染症ではなく、AIDSと診断されるべき病状だった)。護の兄が、護の身の周り品と亡骸を東北の実家に引き取り、その土地の風習でまず荼毘に伏されてから、遺骨を祀る形で葬式が行われた。俺は親族として参列した。これはラッキーなことだったと思う。男同士の関係など邪険に扱われて葬式に出るなどとんでもない、などというケースについて聞いたことはあったからだ。護の父母にしてみれば、東京でICUに格納されている子供の面会を東京で高い宿泊費を払いつつ続けるのは難しいことだったので、代わって面会した俺に礼節を尽くしたのだろう。

護と住むつもりで部屋探しをしていて、「引っ越すので1月には部屋を出ていく」とルームメイトの吉弘には告げていた。しかし、こんな事態になり、2DKの部屋はやめて、しかし吉弘と暮らすことには懲り懲りで出て行きたかったこともあったので、部屋探しを一人暮らし用の1DKに変更し、部屋を見つけて俺は中野に引っ越した。

引越し先は、やけに空白の目立つ殺風景な光景だった。護と住むために、なるべく不要な物は減らして引っ越し準備を進めていたからだ。

護の持ち物は護の実家に引き取られて行ったと言ったが、そこには最初に二人暮らしを始めた時に俺がローンで買い、共有で使い続けるはずの物が含まれていた。護の物だと思い込んで既に引き取られていってしまった物を「二人で使うはずの物だったから」とは言えず、俺には手持ち無沙汰な独りの空間と、ローンだけが残された。初めて二人で揃えたペアブレスレットにリング、携帯ストラップは手元になかった。それらは一旦関係を解消して護が実家に帰った時、訣別の決心として、海に流してしまっていた。

それから一年した時、3回忌に、俺はまた東北にある護の実家へ出向き、仏壇の前で挙行された簡素な法要に参加した。東京から訪れた俺には、昼食にインスタントラーメンが出た。侮辱の意味でそうしたのではない。貧しい家庭だったのだ。二人の兄がいたが、兄達は自衛隊員だった。昔、東北地方は貧しい家庭が多く、食い扶持としてよく子供は自衛隊に入隊する家庭が多いのだという社会科で昔習った風評を思い出した。法要が終わると、雪の深い畦道を歩き、護の遺骨が納められている、畑の傍に立つ不整形の石でできた先祖代々の墓に手を合わせた。

今でも護を思い出すと、楽しかった日々と共に、雪降るモノトーンの景色の中、畔ばたにぽつんとある墓を思い出す。

護とのことを思い出す時、鮮明に季節が頭に浮かんでくる。
出会った春、
一緒に暮らし始めた夏、
急転して別れた秋、
離れて暮らした冬。
また巡る春、
旅行に行った夏、
東京に護が戻ってきた秋、
そして突然の死の冬。
2周りの春夏秋冬は、忘れ得ぬ体験となった。そして、もう護との季節は巡ってこないのだった。独りで迎えた次の春は、無彩色だった。
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