付き合い遍歴 その11 ただ寄り添ってくれて


和哉とは、クラブに行く時に友達の仲立ちで知り合った。挨拶する顔がにこやかで、一緒の時間を過ごすのが苦ではないと感じられた。苦ではない、との言い方は相手に失礼だが、なぜそんな言い方をするかというと、この出会いは護が急死して僅か数ヶ月後のことで、その頃俺は神経過敏になっており、ちょっとした人の言動に嫌気がさしてしまうこともままあったので、ストレスを感じないという点が重要事だったからだ。過敏な一方で、未だ俺の頭には空虚な感覚が広がっており、喪失を埋める何かを欲する一方、そんな早くに切り替えられるものだろうかという一種の罪悪感もあって、自らその関係を楽しむべく積極的な求め方ができなかった、ということもある。

実のところ、護を失ったことで俺が自分自身をも見失っている様は、自分で認識している以上だった。少し時は遡るが、護が死に、まだ和哉と知り合う前のある日、会社帰りに小一時間もの間地下鉄大手町駅のホームをうろうろしている自分にはっと気づいた。そこで、「これは正常ではないな」とやっと自己判断し、心療内科に行き、抑鬱状態と診断され、その診断を基に半年間の傷病休暇を取るに至った。

何故駅のホームをうろうろしていたかというと、いつ電車に飛び込もうかと思いつつ、そのタイミングを決めかねていたのだ。その心療内科には「パートナーと死別した」と話した。同性パートナーに関しては否定も肯定もせず、ありのままの事実を診断する医者で、そこで特段ストレスを生じなかったことは、2000年代前半というまだまだ偏見も根強かった時代性を考えると、ラッキーだったのかもしれない。
そして、その診断結果を基に傷病休暇を取るにおいて、経緯を会社に話す必要があった訳だが、会社では俺は以前からカムアウトしており、何か誤魔化すような言い方の必要はなく、そこでもパートナーの死別について直截に告げた。それはそのまま受け入れられ、傷病休暇に入ったのだが、そこで何か嘘を言うと詐病、給料の7割が出て働かない処遇の原因に嘘があったとなれば詐欺にもなりかねなかった訳で、自失ながらも常に自分のことについて真実であろうとする姿勢は、この時の自分を助けたと言える。

そして、その休養中に俺は和哉と会った。それは、「クラブに行く時に友達の仲立ちで」と冒頭に書いたが、「寝て過ごしても何をしていても休みは休みだから、ずっと家にいてもあれだし、気分転換にクラブでも」と知り合いに誘われて行くことにした時、知り合いと連れ立って来たのが和哉だったのだ。

通常なら、そんな普通でない状態の俺のような人間に個人的に寄り添おうとはしないものだろうが、和哉は違った。ただ側にいてくれて、それはとてもありがたかった。その頃、どうやって一緒に過ごしたか、次段で書くパレードでの体験以外、あまり覚えていない。最低限、健康維持かつゲイのエチケットとしてジムには通っていたが、日常生活では基本寝て過ごし、寝足りてしまってベッドからぼんやり眺めた自室の天井内装パネルの模様だけが記憶にある。

付き合っている年の秋、札幌で開かれたレインボーマーチ札幌(現さっぽろレインボープライドの前身)に一緒に参加した。2004年のことだ。春から半年間の傷病休暇が明けた直後だった。縁あって声がかかり、俺はゴーゴーとしてフロートに乗っての出演で、和哉も顔出しに抵抗のない人だったので、共に出た。和哉が北海道をレインボーカラーに抜いたフラッグを振る姿は、翌年のパンフレット等にも使われた。その年のレインボーマーチ札幌も、俺はフロートに乗って出演した。

しかし、未だ精神の均衡を崩していた俺は、和哉にとってベストな存在ではなかった。些細なことでイライラし、俺は感情をそのまま和哉に向けた。明け方のクラブで大勢の人がいる中、大喧嘩をしたこともあった。

そんな感じでは付き合いはうまく行くはずもなく、別れた。付き合った期間は正確には覚えていないが、そう長くはなかった。もし違うタイミングで出会っていたら、もっと長く、そしてもっとうまく付き合えたかもしれない。しかし現実としては、そんな状態の俺は、この関係を続けたとしても、和哉の時間を浪費してしまうだけだった。

これはもう20年ほど前のことだが、和哉とは今でも友人として関係を築けている。付き合った人の中で、解消後友人になれた唯一の人だ。今でも申し訳なかったと思いつつ、あの時の俺に寄り添ってくれたことを、感謝している。

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