小説『クラブロンリー』第7章[MYKONOS LOFT 噂]

第6章[竜人]から続く

妙な噂を流すもんじゃない、と、俺がヒロシを叱ったのは、そろそろ4時を回るかという頃だ。俺とヒロシは、何となく人の入りが悪いので気分が乗らず、コロナのボトルに櫛切りのライムを押し込んでは飲んでいた。外は雨だと誰かが話している。どうりで予め天気予報をチェックしていた奴らは来なくて、今夜は人が少ない訳だ。ゲイは雨に溶け、寒さに凍るといわれるとおり。

タグチさんがエイズに罹ったという話は、実は既に聞いていた。竜人と飲みに出、スクラムハーフは生憎カウンターが埋まっていたので、その隣のビルの『ジョイント』に行った、とある夜のことだ。

「タグチさん、ヘアサロンを閉じて佐賀の実家で療養してるらしいよ」

と、竜人の隣に座った男が低いトーンで連れに話した。そういえば急に痩せてたよね、と、その連れは返すと、「ママ、同じの。」と、鏡月のアセロラ割を頼んで、◯◯サウナに出入りしてたよね、結構派手だったみたいよ、と話に接ぎ穂をつけた。そのことは、水に落としたインクが静かに広がりながら沈殿していくように、俺の心の底に滲みを拡散させた。

「実はここを閉じることにしたの」

と、タグチさんが自分の名をつけたカットサロンで俺の髪を切りながら、残念すぎる宣告を静かにしたのは、数ヶ月前だった。

「この仕事は好きだけど、色々考えて、実家の家業を手伝うことにしたの」

と、その日、タグチさんは俺に言った。俺はタグチさんとは髪を切ってもらうだけの関係でしかなく、私的に連絡先を交換したりはしていなかった。が、以前通っていた散髪屋が、俺の頭皮に湿疹ができるたびいちいちそれを指摘されるのが嫌で、タグチさんのヘアサロンに変えた時、何も言わず普通に髪を切ってくれたタグチさんの控えめで優しい人となりに、安らぎを覚え、もう通い続けて数年になる。いつもゲイにとってかっこよく見えるヘアスタイルを完璧に仕上げてくれる腕にも、信頼をおいていた。
髪を切っている間にも余計な話は差し向けてこないタグチさんだったが、今までポツポツ断片的にやり取りしたことを繋げるに、タグチさんは佐賀の出身で、実家の酒屋からは戻って継いでほしいと言われているのだが、ヘアスタイリストとしてやって行きたいし、お店も持ったしと、戻るのは断っていたはずだった。

その日、いつもどおり俺の髪を切り終えると、タグチさんは「ユウちゃんにはずっと来てもらってたのにごめんね」「もう閉じてしまうので、ストックを持っていてもしょうがないから」と、高価なヘアケア用品をたくさん、紙袋が破けそうなほど詰めて、俺に持たせたのだった。

タグチさんは今は平和かつ退屈に実家の酒屋を手伝っているのだろうという俺の甘い幻想を打ち砕いたその噂話をジョイントで耳にした時、竜人はキープボトルの並ぶ棚に視線を据えて、その話題を厳かにシャットアウトしていた。竜人は噂話を好まないとその時には既に知っていたので、タグチさんについての噂を落とすだけ落としたニ人組が出ていった後も、俺がタグチさんに髪を切ってもらっていたことも含め、その話を竜人には差し向けないでおいた。

3本目のコロナに口をつけるとヒロシは、

「タグチさんの近況、知ってる? もう下の世話もお母さんに任せきりらしいよ。帰ってきた時に『勘当だ』ってお父さんはえらい剣幕だったらしいけど、戦前じゃないからそれも無理じゃない? お母さんは一生懸命看てるけど、もう長くないって」

と言うが、話の出処がどこかと質すに、小耳に挟んだと言うだけで、はっきりしない。何かの時にタグチさん自身が実家の地方のことを「保守的な田舎。閉鎖的だし、ゲイの『ゲ』の字もない」と、言っていたのを思い出す。もし、タグチさんがエイズで実家に帰って療養生活をしているのが事実だとしても、タグチさんの容態がそこから漏れて新宿まで流れてくるとは思われなかった。

腹立たしかった。タグチさんとは言葉をあまり交わさないのが信頼と俺は勝手に思い込んでいたが、それは、タグチさんがひょっとしたら誰かに告白したかったことを、押し込めていただけなのではないか。タグチさんに、今は言葉一つかけられない。好き勝手噂を流す奴らにタグチさんの何が分かるんだ、と憤っている自分は、タグチさんのことを知らなさすぎた。ヒロシをたしなめたところで、それは自分の不甲斐なさから生じた八つ当たりでしかない。

この夜を踊り飛ばそうと、曲がBlackbox [Everybody Everybody]に移ると同時に、俺はスツールを離れ、ダンスフロアーに飛び出た。

Technotronic [Spin That Wheel]、CeCe Peniston [Finally]、Crystal Waters [Gypsy Woman]と続くヒットチューンによって、怒りのフラストレーションは、グラスに入り損ねてバーカウンターに滑り出たまま忘れられた氷のように、いとも簡単に丸く溶けてゆく。クラブミュージックは、痛みを取り去り恍惚に変える阿片だ。

最初に休憩した時、1つ置いて隣に座っていた男が、今隣にいると気づいた時には、俺の中の氷はだらしない小さな水たまりになっている。ちらちら見やりながら踊っていると、向こうが踊りを仕掛けてくる。当然、応じる。鳥なら求愛ダンスをするのは雄の方だけだが、男同士、ダンスを披露するのは、向こうも俺もだ。そしてダンスの前から、それを受け入れるかどうかは、視線を交わした瞬間から既に決まっている。Club 69 [Let Me Be Your Underwear]。

曲に乗るふりで互いの腰に手を回し、密着させた時、目的を手に入れた満足と同時に、また消費してしまったという後悔が訪れる。義憤をぶつけたかと思ったらすぐ鞘に収めた脆弱さについてではない。いい男という資源は有限なのに、またこうして手をつけてしまったことに対してだ。

第8章[QUICK]に続く

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