小説『クラブロンリー』第8章[QUICK]

第7章[MYKONOS LOFT 噂]から続く

受話器をフックに戻しても、外のサイレンは続いていた。QUICKのビルにまで入り込んでくるということは、かなりの台数なようだ。しかし、特にQUICKの中で何かが起こっている訳ではなく、警官や救急隊が突入してくる様子もない。大方、『フリオ・トウキョウ』で悶着でもあって向かっているのだろう。まさか『トゥーリア』の照明落下事故のようなことは、もうあるまい。俺はロッカーを見下ろすように組まれた建築現場の足場のような階段を上り、3階の政次の所に戻った。

政次は上に行こうと誘う。一口サイズが3階に下りてきていた。近くにいて気まずいのだろうが、もちろんこの誘いには違う意味がある。階段を上る。4階のメインフロアーへ出ようとすると、「そろそろいい時間じゃない?」ともう一階上るべく、政次は俺の手を更に引く。やっぱりだ。

5階には気配が充満していた。闇の向こうの喘ぎ声が届いてくるようだった。微かに有機溶剤系の匂いがする。ラッシュだ。早速、最初のベンチに、4、5人が群がっている。そこを通り過ぎると、次のベンチには2人、その次には3人。ひょっとしてその中に竜人は、と通り過ぎ様に横目で観察するのだが、俺との出会い方はともかく、竜人がこうした場で向こう見ずなセックスに及ぶとは思えないという予想の方が正しく、竜人はいなかった。

いくつかベンチを通り過ぎ、照明がちょうど柱の陰になって届かない所に空きが一つ。政次はそこに腰掛けると、俺を手招きする。政次を断ることのできる男なんているだろうか。俺は横に座る。座ると同時に政次の顔が俺に近づく。キス。カッチャンのことが脳裏をかすめる。カッチャン、実家暮らしでママにべったり、飲み屋やクラブを敵視しているから、お前の彼氏は愛想つかしてこんなことをするんだよ。タイミング良く階下から響くMe’Shell Ndegeocello [If That’s Your Boyfriend (He Wasn’t Last Night)]。尤も、政次は愛想つかさなくても、こんなことをしているだろうがね。

俺達のベンチを男が通り過ぎる度、その視線を巧く遮り、時には参戦しようとする者があるのを穏便に拒絶しながら、不便なセックスをする。こんな所よりも車でやればいいものを、と思うだろうか? これもまたクラブスタイルなのだ。5階はこのためにある。使わない手はない。政次がいよいよというところで立ち上がり、吹き抜けから階下に放出しようとするので、慌てて向きを変えさせ、俺と共に回廊の壁の隅へ。そこなら下手に誰かがもたれかかって悲惨な目に遭うこともない。

事を終えて、政次は、男にしてはすべらかに柔らかいその唇を俺の頬に押し当て、いたずらっぽい笑みを浮かべ、まだ縮こまりきっていない自身を窮屈そうに納める。政次にもしカッチャンがいなければ、俺達は付き合ったのか、と薄っすら考える。この性分を考えると、政次は付き合うべき相手ではないが。それでは、竜人は。今、どこにいるのだろう。何となく心を掴み損ねて、今夜は物理的な所在さえ。

4階に下りる。音はいよいよ〆にかかっている。Janet Jackson [If (Brothers In Rhythm House Mix)]、Robin S. [Show Me Love]と、音に向き直ってひたすら無心に踊る。

クラブで踊っていると、ある時点で、大勢のクラバー達に囲まれていても孤独を感じることがある。そして、夜を愛しているのに、朝の到来を心の何処かで待っている自分に気づく。クラブでの孤独を感じることは、自身を痛みに捧げる祭礼だ。ヒンドゥ教徒がタイプーサムで体に針を刺すように、イスラムのシーア派がアーシューラーで自らを打ち血を流すように、男達は孤独を踊り抜き、一心に、自身のある限りを体で表現する。

クラブでのダンスは、来光を祈る奉納だ。そのパワーが、太陽を地平から押し上げるのだ。しかしそれは、一致結束しての力ではない。朝へ、朝へ、と踊りで闇をかき分ける、それぞれの男の力それぞれが、少しずつ、朝へと地球を回すのだ。自分が踊るから朝が来る。誰かの朝は、その誰かが迎える朝で、他人が与えるものではない。そして我々は孤独だ。群れても、絡んでも、朝が来れば、ここから散ってゆく。クラブはただのコンクリートの箱になる。また違う夜が来て、その扉を目指し、踊る男が集うまで。

「そろそろ帰る?」との政次の言葉に、足るを知る。3階へ。アルコール販売のラストコールも終わり、最後まで踊りたい面々は、ほとんどが4階へ移っている。文字通りクールな環境に、Soul II Soul [Back To Life]が蛍の光よりも強力に響く。生活へ、現実へ戻るのだ。

外に出る。とうに上っている黄色い太陽が、容赦のない光を俺達に投げかける。車に戻って馬鹿な格好から着替え、車を出すと、入れ替わりに早朝便のトラックが倉庫街へ入ってゆく。

運河を渡ろうとしたら、浦島橋が通行止めになっている。5、6台のパトカーに救急車、消防車、海上保安庁の車まで出動していて、規制線が張られている。橋の袂からはQUICK帰りの野次馬が大勢運河を見下ろしてい、その中にドアマンのケイジがいた。そういえば、エントランスでのピックアップが大方終わったら、いつも3時過ぎにはフロアーで会うのに、中に来ていなかった。後続の車と共に俺と政次の車は橋の前でスタックし、進むこともバックすることもできなかったので、運転席に政次を残し、下りてケイジに何事か、聞きに行った。

ケイジは泣いていた。要領を得ない涙声混じりの中に事態を聞きただす。夜中に誰か運河に飛び込んだらしい。QUICKの隣のビルの屋上からだとか。

「誰?」

「顔は知ってるんだけど、名前は知らないの。うちに毎回来てくれてたお客さん」

規制線がつかの間解かれ、救急車が中から出てきた。救急車が赤色灯も点けずサイレンも鳴らしていないということは、おそらく、中の人間は冷たいということだろう。大勢の視線と同じく、俺もまた自分の前を通り過ぎる救急車を見送った。

「暗かったから発見するまで時間がかかって、引き上げられた時には、もう息はなかったって」

そこではケイジがそう言うだけのことしか分からず、俺が具体的な顛末を知るまでには、もう1週間かかることになる。

第9章 最終章[DRAWSTRING BAR]へ続く

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