付き合い遍歴 その9 グッバイ・イン・ニューヨーク


弘人同様、健吾もまたバリアの強固な人物だった。しかし、弘人の時とは違い、その訳は後で知ることになる。

健吾ともその頃俺が入り浸っていたアンダーウェアバーで知り合った。バーの当時のママとは知り合いだったようだ。身長が非常に低く、筋肉も脂肪もあるチャンキーな体型、ド短髪で、ミュージカル好きと言うと、まあありがちな、ゲイ業界で言うところのイカニモガッチビというやつだ。巨根だった。身長に行くべき栄養がすべてそっちに行ったのかと思われるような。

大手電機メーカーに勤めているのが健吾の自慢の一つだった。住んでいるのは実家、母一人子一人で暮らしているとのこと。どこかと聞くと、寝小便の宗成の実家があった東京の郊外、同じ市だった。嫌な前触れ情報だ。健吾と宗成とは無関係とはいえ。

そして案の定、嫌な前触れはこれから不快なスタンスとなって立ちはだかる。健吾は俺と会って食事はするが、セックスはほとんどなかった。そして、したとしても、決して俺の家には泊まらないで帰る。事後のピロートークすらしない。必ず帰るのは「母が心配だから」というのが建前だった。母親の話は、事あるごとに出てきた。そして次に多く語ったのが、趣味であるミュージカルの話だった。

健吾の職場にも行ったことがある。俺はその時、半年の無職期を経た後、PCソフトのローカライズの会社に勤めていたので、仕事関連で、という名目で入った。パーティションで区切られた専用スペースに、ミュージカルのミニポスターやら何やらが貼ってあった。

しかし、職場にまで招いておきながら、どこかこっち側に入り込んでこない。それは明確に意図されて引かれた境界線によるオフリミットだった。その不透明感はずっと続いた。

釈然としないまま付き合っているうち、健吾の好きなミュージカルと、ミュージカル出身で有名な女性歌手のライブをニューヨークで見ようと誘われた。
「旅行か、時間を長く共有できるし、これは関係を深めるチャンスだな」
と俺は思ったが、その目算は外れることになる。

まず、往復とも便は別。普通、付き合っている相手と旅行に行くなら旅程も一緒なのが当たり前だと思うが、健吾曰く、マイルが貯まっていて長期休暇も取れるのでハワイに立ち寄ってから行きたい、帰りもハワイ経由になるので、途中日程にはなるが、ニューヨークのホテルで落ち合おうという話だった。俺はそう長期休暇も取れないので、別に自分でニューヨークへの直行便を取り、健吾が旅行に立ってから数日してニューヨーク入りした。

ニューアーク空港に着いた俺は、一人タクシーに乗り、健吾の手配したホテルの名前とアドレスをドライバーに告げた。ドライバーは”Don’t worry, I’ll take you to the right place where you want to be.”と言い、タイムズスクエアに程近いホテルまで俺を連れて行った。

ホテルの部屋はツインで、別々のベッドだった。旅行中、セックスをしたかどうか、覚えていない。少なくとも、一緒に寝はしなかった。一度も、午睡でさえ。

滞在中のイベントは盛りだくさんだった。当時ニューヨーク在住だった俺の友達と会ってクラブに行く。ブルックリン橋を歩いて渡る。チャイナタウンで飲茶ランチをする。ピアを散歩し、アバクロンビー&フィッチの店で買い物をする(今となっては恥だが、当時A&Fの人種差別やルッキズム、そして性的搾取については表沙汰になっていなかった)。Christopher Streetを歩く。MOMAに行く。次々こなした。メインの目当てのミュージカルはブロードウェイ・オフブロードウェイ共複数観て、目当てのコンサートも観た。

文化の話にしろ、その他にしろ、そうした四方山話をしている時の健吾は楽しそうだった。しかし、それは自己満足のモノローグに近く、蘊蓄の披露と客体への感想の言葉は発せられた瞬間にその目的を達し、俺の返答の如何に気を払っている様子はあまりなかった。
そして、その他プライベートなことには踏み入る術がなく、距離についてそれ以上詰められる気配もなかった。プライベートな関係(のはず)なのにプライベートに立ち入れないとはどういうことだろうか。滔々とミュージカルや芸術作品について話す健吾を前に、その存在が、空疎に見えてきた。

ニューヨークに行ったのは、まだ寒い3月のことだ。ブルックリン橋を歩いた時、WTCツインタワーを背に、ザ・ノース・フェイスのダウンジャケットを着てポーズを取る俺を健吾が写した写真は、今も手元にある。2001年。9.11でWTCが瓦解する半年前のことだ。健吾にはイライラしたけれども、WTCの写っている歴史的な写真ではあり、また、写っているのも俺一人なので(旅行先だと普通は人に頼んででも撮るであろうツーショットを取らなかった訳は後に知れる)。デジカメは隆盛期だったが画素数が充分でなく、ちゃんとした写真はフィルムカメラでという頃の写真で、当時の自分の写真は貴重ということもあり。

そのダウンジャケットは、旅行中にどこかで引っ掛けて生地が裂けた。A&Fで服を買っておいたので、それを着て、ダウンは捨てていくことにした。何日間の日程だったか忘れたが、一緒に過ごせば過ごすほど、健吾のアンタッチャブルな防御姿勢に俺の苛立ちは募り、どう攻めてもこれは攻略できないと俺は悟り、この関係はこの旅行で最後にしようと、もう腹を決めていた。
ダウンをホテルの部屋のゴミ箱に捨てる時、俺はミュージカルを演じているかのような芝居めいた冗談ごかしの口調でこう言った。
「さよなら、あなたはもう用済み。用済みさんは、こうしてポイなのよ」
と。つまみ上げた指をパッと離すと、ジャケットはゴミ箱へ滑り落ちた。その意味がその場で健吾には伝わっていただろうか。

伝わっていようがいなかろうが、俺の別れの決心は固まっていた。最終日、ホテルの前から空港に向かうキャブに乗り込む俺に「じゃあまた日本でね」と、健吾は声をかけた。「その『また』はもうないよ」と言うセリフを返す代わりに、俺は無言で手を軽く振り、ドアを閉め、ニューヨークを立った。
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