ダークサイド I-4 闘いの始まり


『ダークサイド I-3 コントロールと冷淡』からの続き)

バブルの頃

虚栄心の強いタイプである両親にとって、バブル経済の風潮は最も潮流に乗りやすく、また罠にはまりやすいものだった。
バブルと聞いて人が思い浮かべるような贅沢は、すべからく手に入れられ、俺もまたそれを享受した。子どもが贅沢な暮らしをしているということは、両親にとってステイタス心をくすぐる事柄だったから、惜しげもなくそれは提供された。

彼らにとって金回りがいいということは、気分がいいということだった。もとから周りの人間を馬鹿にする傾向があった彼らのこと、子供の教育によくないという建前でそれらは「上品に」抑えられていたつもりではあったのかもしれないが、その豪気が親戚などから反感を買っていたことは想像に難くない。後にそれらが去り、苦境に陥った時には、手を差し伸べる者は、母方の祖母以外の親戚にはいなかった。

東京

東京に移った俺は、地理的制約を離れて、つかの間自由を謳歌する。大学で勉強をしてはいたが、ゲイ的な活動も、この頃急に活発になった。バーやクラブでパッと遊んで、金は使い放題で、よく自分を見失わなかったものだと思う。この頃はまだ、自分がゲイであることを両親には告げていなかった。
上辺だけのことが、ただ過ぎていった。だが、すでにこの頃、いろんなことがきしみ始めていた。バブル期にはありがちなことだ。

見栄と欲望

当時父は見栄と欲望のために、自分の身の丈以上に借金をしていたらしい。借金はあってもすぐまた埋まる、そんな時代だったから、そこで止めておけばいいものを、妙な投資話でどうやらどつぼに嵌まったようだ。
ひたひたと浸水していく船に乗っているかのようで、バブルがはじけた頃にはもう首までどっぷり浸かっていたのだが、父はそのことを家族には黙っていた。母に対しても。母はそんな父に相変わらずの要求をいろいろ出しては、様々な拠出を迫っていた。が、数年してついに隠しおおせることではなくなり、母もそのことを知ることになる。

闘いの始まり

大学を卒業後、俺は司法浪人していて、就職しないまま東京にいた。妹も東京の大学を卒業し、二人して司法浪人だったのだが、別々に住んでいると不経済だからとの理由で、一緒に住むように言われた。
2人で暮らし始めた所は、家賃が当時の大卒初任給の1.5倍ほどの所だったように記憶している。贅沢病はすぐには治らないのだ。妹と一緒に住むようになって、自分がゲイであることを隠し立てしているのもどうかと思い、付き合っている人がいてそれが男性であることを告げた。だが、当時の妹はそのことを受けとめきれず、帰省した時に様子が通常でないのを見とがめた両親に詰問されて、俺がゲイであること、付き合っている男性がいることを親に告げた。

理想が崩れ始めていた家で息子がゲイであることなどは、両親にとっては耐え難いことだった。すぐに東京の家に父が飛んできて、すぐに実家に帰るように言われる。何しろ生活費の出元は親、首根っこをおさえつけられていてはどうしようもなく、俺は東京をあとにする。が、ゲイであることについては自分の核たるところとして、侵食を断じて許さない態度でいようと決めていた。

実家に帰って

実家はその頃、嫌な雰囲気だった。ともかくも、俺がゲイであることは絶対に認めさせなければならなかった。無論、ものすごい勢いの反発があった。当時付き合っていた男性(俺が東京を離れて遠距離恋愛状態となった)のことを指して、母は「その辺で拾ってきた女の方がまだましよ!!」と叫んだ。付き合っていた男性は、楽器の輸入販売の会社に勤めていて、オーケストラにも入っていた、いわば社会的には至極まっとうな生活をしている相手である。
続いて母は「この気持ちが分かるの? 私は孫が抱けないのよ?」とも。その程度の発言をすることくらいは、予期していた。母はいつでも「私は」「私は」の人なのだ。
父は、そのことについて、自分は反対だとのことを厳に宣言したあと、黙っていた。むしろ父はそのことよりも、自分の経済力や権力の夢が崩れつつあることの方が、目下の懸念事だったのだ。

ここに至って、俺はこのことについて、言い合うよりも文章で宣言する方がいいと踏んだ。中学に上がった時に条件つきでオーディオコンポを買ってもらったことは第2回で書いたが、その時には念書を取られていた。書証を要求するのはいかにも弁護士のやり方らしい。ならばこちらも書面で、というわけだ。文面は当時その通りではなかったと思うが、概ねこうだ:

自分がゲイであることは自身の人格のコアを成すところであり、そのことについて他の何びともそれを冒すことはできない、自分の存立に関わることだ。そのことを認めないということは、人間そのものを認めないこということであり、だとするならば私はそういう人間を家族とは認めない。明日からは、同居人とみなす。

こう書いた文面を、俺は両親のベッドに置いておいた。自分達を否が応にも優先させ子供をコントロールし続けようとしてきた両親にとって、この宣言はショックな出来事だった。人をコントロールしようとする人間は、何よりつながりの拒否=コントロールする対象を失うことが怖いのである。
俺がゲイであることに対する拒否感を表現することは急に影を潜めたが、彼らにはこのことを認識させ続けなければ否定は続くと俺は考え、そこで一計を案じた。

当時は携帯電話がなく自宅電話だけだったので、当時付き合っていた相手に、必ず向こうから家に電話をかけてきてもらうことにして、かけてくる電話には俺は出ず、親に電話を取らせて、俺に取り次がせるようにしたのである。
もし取り次がなかったら? 実は短文をやり取りできるポケベルを俺は付き合っている相手からもらって持っていた。電話の他に短いメッセージはそれでやり取りしていたし、電話が拒否されたらその事実がすぐ分かるようにしておいたのだ。そして、取り次がないようなことがあれば、徹底抗戦を考えていた。結局取り次がれないことはなかったが、このやり方は、かなり効果があったように思う。

虚像の崩壊

大阪に戻され、3年ほどを経て俺は再び東京に帰るのだが、この時代を自分の人生の暗黒時代と思っている。この頃、家の経済状態はいよいよかしいでいった。母は、貧すれば鈍するを地で行くような人で、金がないとなると常に不機嫌だった。
「私はこんな不幸な目に遭っている(不幸にさせられている)」
と毎日嘆いた。嘆く形で、金回りの悪くなった父や思い通りにならない子供を非難していたのだ。
父の帰宅は段々遅くなった。そんな家に帰りたくならないのは当たり前だが、その頃から自分の法律事務所で働く女の事務員と不倫関係になっていたようだ。後に、その不倫関係は母に知れることとなるのだが、不倫関係にあるという事実は、自分が最優先に扱われて当然と思っていた母のプライドをいたく傷付けた。そして、事務所で女と何をしたかを逐一父から聞き出し(聞き出されてそんな具体的状況をすべてあからさまに話してしまった父の馬鹿さ加減もどうかと思うが)、夫婦の間にしまっておくことができず、俺やら妹やらにそのことをしゃべり立てた。
「私には全然(性的に)手もつけないでおいてあんな女と!」
と憤って。まあ、日頃口やかましく攻め立てる母のような女には、普通手をつけないと思うが。

そんな状況で、「理想の一流家族」の像は、すでに大きく崩壊していた。いや、最初からそんなものは幻だったのだ。日頃の話といえば、別荘を売るの、ゴルフ会員権の買い手がつかないのと、そんなことばかりになった。バブルは、とうの昔に崩壊していた。崩れていくべき虚像はとっくに崩れていた、そんな時代のことだ。

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