ダークサイド I-3 コントロールと冷淡


『ダークサイド I-2 上辺の優雅と自由』からの続き)

高校時代

管理されていることと引換に物質的に快適に生きる環境が与えられる。子供がそんな環境にいたら、何かがおかしいと思いながらも、管理されながら暮らすしかない。
どこの高校に進学するかの場面でも、それは起こった。トップのK高校よりも、俺はその次と目されていたT高校に行きたかったのだが、成績で輪切りにされて行くべき所が半強制的に割り振られる時代、成績的な割り振りではK高校。K高校に行くはずだった者がT高校に行くとなると、T高校に行きたかった者が玉突き的にその下へ行くことになるので、それはよろしくないとの中学校の判断と、当然トップに行かせたがる両親の意向で、K高校に進学した。

名門校

自分はK高校に行くことはどうでもよかったが、学校名を言うと感嘆する人がおり、また、学校自体はその名を大層重んじていて、妙な感覚だったが、もちろんK高校に子供を入れた両親は満足だった。

そのK高校がどんな学校だったかというと、エリート意識満々で、かつ他人をいかに出し抜いて蹴落とすかを虎視眈々と狙っているいやらしい奴らばかりで、教師は二言目には「伝統の」とか「栄誉ある」という言葉を発する所。
そんな所で友人を作る気にはさらさらならなかかった。人間環境への疑問を抱きながらも通学していたが、学校が遠いのと、始業が他校よりも1時間早かったのとで、早朝家を出る生活だったので、興味のない学校では眠くてしかたがなく、学校では、ひたすら寝て過ごした。同じ中学から進学した連中と学祭でバンドなどを組んでやってみたこともあったが、惨憺たる出来で、1回で懲りた。

独り

在学中は、ずっと独りだった気がする。そして、何かがおかしい、何かがおかしいと思い続けながらすごししていて、ある冬の朝、通学している生徒の背中を見て、ロボットじゃないかと気がついた。同じような髪型の無表情な白い顔をした奴らが、塀に鉄条網のめぐらされた校内へ吸い込まれていく。そして自分もその中の1だったのだ。

独りであることには、不満と快適が同居していた。早朝、前日夜に用意された弁当を自分で詰めて持って、あるいはない場合にはパン代を持って家を出る。最初の頃には親も起きていたが、すぐに自分だけで出るようになった。一緒に通学する人はいなかった。
教室に入って、眠いので始業まで寝ている。そして授業が始まってからも興味がないので寝ている。教師もロボットのようなもので、要はテストで点数が取れればそれでいいのだから、授業態度はどうでもいいといわんばかりの形式的な授業をする。生徒も心得ていて、騒ぐような頭の弱いのはいない。頭が良いことに自負があり、その自負が過ぎて生徒のほとんどは教師をバカにしていた。
俺は授業時間のほとんどを寝てすごすと、クラブに入っているわけでもなかったので、そのまま家に帰った。よくありがちな高校生がグレるエピソードだと、ここで繁華街をうろうろ……となるわけだが、そうはしなかった。俺も頭の悪い行動は嫌いだったのだ。そして、それだけ家へ強固に紐付けされていた。

そっと反抗する

帰宅するとピアノの練習をし、(中学にあってからは2で書いたゴリラ先生は変えて、ピアノののことは好きになっていた)食事をして、テレビを見るか自室へ。その繰り返しか多少のプラスアルファがある程度で、高校の3年間は過ぎて行った。繭に閉じ込められたようなやわらかでしかし確実な閉塞感が、感覚を支配していた。
親とは大して衝突もしなかった。まだ親からのコントロールは影響力を持っていたし、経済力や知性の度合いやらも、子供が子供である限りは、子供に対して説得力を持っていた。親がかりで生きている限りは、その親は偉大でなければならず、偉大でさえあればいいのだ。ただし、その偉大とは、人間的に優れていることではなく、資本社会においてパワフルであることと、子供を自分の望むとおりに統御する力を掌握していること、それだけのことではあったが。

衝突は大してなかったといっても、このマリオネット状態は何かがおかしい、とは思っていた。少なくとも学校でのあのロボット連中と同じはいやだ。
そんなわけで、高校生にありがちな、髪型をアバンギャルドにしてみたり、学生服を、外見は一見普通だが、ライナーに刺繍のあるようなものにしてみたりといったささやかな反逆をしてみた。ただし、いわゆるヤンキーのような格好と振る舞いはせずに。大した反抗でもなかったが、母はその髪型にすかさず反応し、「私あなたと歩きたくないわ」と、拒否と不快感を示した。
そのうち、当の俺はそんなことにはすぐ飽きてしまい、適当な髪型をするようになって、母に対しては「俺もお前はいやだよ」と内心だけ思うことにし、ソーシャルな付き合い方をするようになった。
言うことを聞いている分にはすこぶる機嫌がいいので、家でお茶をしたり、家族で食事に行ったりということはよくあった。そうしている分にはまるで機嫌がいいので、こちらも家族に愛が生じている気分がした。本当は愛情があればと思っているところに擬似的にせよ暖かな雰囲気の空気が流れれば、人はそれを愛だと感じたがるものだ。

大学受験

大学受験の頃になると、自分で何をしたいのかは、親のコントロールで半自動的に弁護士だと思っていた。法学部を志望し、受験シーズンになる。現役の時には、そんな有様で高校時代を過ごしていたものだから、情報もなく、見事に失敗した。

試験日の事件

そして予備校に行き、再び入試となった時、ちょっとした「事件」が起こる。受験当日、試験は午後からで、家から1時間以上はかかる試験会場には、父が父の車で送っていく予定だった。受験準備も順調にその日を迎えたが、それでも緊張はあったので、気分を落ち着かせるためにピアノを弾いた途端に、父の怒号が響いた。
「お前を送るために何千万もの取引を待たせてあるのに、何をやっているんだ!!」
と。頭に来たので、家をそのまま出て、自力で試験場に行こうと、近くのバス停に向かった。騒動を察知した母が、母の車で拾いに来、一旦自宅に戻らせてから、あらためて母が試験場に俺を送り届けた。

その日、父の失態については、両親の間でかなりやりあったらしい。後日そのことは母から聞いた。親の間でやりあったことをそこだけで秘めておけばいいのに、「あなたのためにこれだけしたのよ」というデモンストレーションを欠かさないのが母なのである。

その日の試験は何事もなく終わった。が、問題はその次の日にやってきた。試験は2日に渡ってあって、2日目に数学の試験があったのだが、難問にさしかかった時、突然そのことがフラッシュバックし、頭がパニックになったのだ。
結果は散々だった。そして、結局翌年も試験の時に混乱して点数が伸びず、以来今に至るまで、試験になると、過度な緊張で気持ちが悪くなる癖が抜けない。

受験に失敗した時の母の態度が思い出される。自室にいて落ち込む様子を母が見に来てしたことは、励ましでもなく、ましてや肩を抱くでもない。
「何よ、情けない」
とだけ言葉を投げつけて、扉を閉めたこと。それだけだった。人の心情をおもんぱかる回路は、彼女にはないのだ。

浪人

浪人中は、夏をいかにすごすかは、重要だと言われる。両親はそこでどういうことをしたかというと、アメリカに出かけて行った。母は「(受験生の)あなたを待っていられないわ」との言であった。
さらにもう1年かかって、最初は計画していなかった東京の私立大学を受験して、そこに行くことになった。(地理的なヒストリーについては、Profileのコーナー参照

大学は、世間的に名前が通っている大学ではあったが、もちろん親の意に染む結果ではなく、入学の祝いは冷淡で通り一遍であった。しかし、東京に出向く前に、世話になった俺の中学時代の同級生には、息子が礼として当時行きつけのフレンチレストランを借りて、晩餐に招いた。無論これは、本物の謝辞を示すためではなく、両親の見栄である。そうして俺は大阪をあとにして、東京の大学に行く。

『ダークサイド I-4 闘いの始まり』へ続く→