付き合い遍歴 その4 隔たりは距離も境遇にも


孝と知り合ったきっかけも、前回の啓介同様、覚えていない。付き合いとは一対一で深くその人と向き合うもののはずなのに、30余年前とはいえ、何故こうも俺の記憶は頼りないものなのかと嘆かわしい。しかし、これから記すことは、俺の記憶に残っている。

孝は同い年だった。それまで俺が付き合った相手は全て年上だったが、特に年上と付き合いたいと思って選んだ訳ではなかった。孝と付き合うにあたっては、同い年なので考えやスタンスが似ていて楽かなと思っていた。

が、そうではなかった。孝は当時、同じ都内ではなく隣接県に住んでいた。通っていた大学がそこにあったからだ。大学は国立大で、慎ましやかなアパート住まいだった。俺が当時住んでいた世田谷のマンションからは、電車で1時間半ほどかかる所だ。

孝の実家にも行ったことがある。日本海側の県で、しがない(と言っていいだろう)自営業の父親が、苦労して孝を大学にやったのだった。

それに対して俺は、学生ながらバブルを地で行くような生活をしていた。弁護士の父親は儲けていて(後にこのバブル期に手を出した投資のしっぺ返しを喰らって痛い目に遭う訳だが)、そのすねかじりだった俺は、部屋に来た人が「ドラマの部屋みたい」と言う「おしゃれな」部屋に住み、仕送りは当時の学生の平均の3倍ほどもらっていて、それ以外にも家族カードで諸々決済し、アルバイトはせず、週数回の二丁目通いからはタクシーで帰る。仕送りの中で俺なりに計算してやりくりはしていたつもりだったが、境遇は孝のそれと全く異なっていた。

コンプレックスと嫉妬心の強かった孝にとって、俺と付き合うことは、事あるごとに違いを見せつけられることとほぼ同義だったようだ。孝にしてみれば、憧れの「おしゃれな」ライフスタイルを持つのが自分の彼氏であることは自慢の種でありながら、同い年が故の対抗心を刺激され、しかしどうあがいてもその対抗心は覆すことができない。

こんなことがあった。当時オーストラリアに語学留学していた俺のゲイ友達に「夏休みにはこっちに遊びに来て」と言われたことがあった。「行こうかな」と孝に告げたら、「ヤリに行くんだろう」と勘繰られ、その根拠もない勘繰りに腹が立って、その場で孝の分の航空券も手配して、俺の(親の)金で旅行に連れて行ったり。

また、こんなこともあった。喧嘩をした時、やおら孝が俺の部屋のウォークインクローゼットにつかつか入って行って、掛けてあった(所謂ブランド物の)シャツをバラバラバラっと手でなぞり、「こんな物見せつけられてどんな気持ちがすると思ってんの!」と言うので、売り言葉に買い言葉で俺も「そんなの知るか!俺は2万以下のシャツは着ない!」と醜悪極まる応酬に出たり。ちなみに喧嘩の発端はこれまた覚えていないが、服とはまったく関係のないことだったと記憶している。

しかし、そうやって喧嘩しつつも、お互いの部屋を行ったり来たりして付き合っていた。が、孝のコンプレックスから来る当てこすりの多さに、段々俺は嫌気がさしてきた。コンプレックスを発揮しない時の孝は基本的には気のいいタイプで、笑顔は無邪気だったし、だからこそ付き合ってはいたのだが、一旦揉めると、コンプレックスの根深さ故に、収拾には手間も時間もかかった。

喧嘩を繰り返すうち、「如何せんあの嫉妬心には付き合いきれないな」という気持ちが、関係を続けて行こうという気持ちを上回ってきていた。俺は元々、人の劣等感に付き合うのが苦手で、これは今もそうだ。

当時の俺の派手な遊び方も、気持ちの変化には確実に影響を及ぼしていた。ちょうど時代は日本のクラブカルチャーの黎明期。ビル一棟丸ごとクラブの芝浦GOLDが出来、月1でゲイナイトが開催され、毎月俺は遊びに行っていた。入口に並ぶ入場者の入場優先順位をドアマンがピックアップして決めるような、クラブ54ばりの、おしゃれ度とルックスが物を言う時流にあって、俺は優遇される立場でもあったことから、どっぷり選民思想に浸っていた。西麻布のクラブで客として踊っていてイベントオーガナイザーに声をかけられ、ゴーゴーボーイとしてデビューしたのもこの頃だ。

東京住まいでなくどこか垢抜けない孝、そしてそれを自覚したうえで自身の中で感情を処理しきれず俺にあたることの増えてきた孝に、俺は心理的に距離を感じてきていただけでなく、積極的に距離を取りたいとさえ思うようになった。

孝と最後に会った(別れた)のは、芝浦GOLDの階下にあるロッカースペースだ。午前4時前でそろそろバータイムも終わりを告げる頃。上からビートの降り注ぐ空間で、青いライトが孝の顔を照らしていた。俺が別れを告げると、孝は右目からきれいに一筋、涙を落とした。結んだ口元が、拗ねる駄々っ子のようだった。が、孝はもう駄々をこねたりはしなかった。そうする前に俺が背を向けて、階段を上って行ったからだ。

俺はダンスフロアーに達すると、すぐにラストコール間近のドリンクカウンターへ寄って、ジントニックをあおった。そして、美しい男達が肉体を揺らすダンスフロアーへ身を泳がせた。2年ほどの付き合いは、それで終わった。これを読んで俺のことを酷い男だと思う人もいることだろう。そう思ってもらって構わない。実際、当時の俺は酷かったのだ。

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