また一年、越え


(かつて俺と暮らし、AIDSで急逝した元パートナーTの命日12月25日を迎えて 公開時間は1日超えたが)

年月は苦い思い出もいつか丸くしてゆくという。それは、思い出が薄まるということでもなければ、故人の輪郭がぼやけていくということでもない。心の中にひっそり仕舞った、誰も触れられない・理解もされないその小箱を開けば、箱の中に細い俺しか手繰れない糸で吊るされたそのことは、あまりにも鮮明に思い出される。苦い悔悟の念もまたありありと。許しを請おうにも、もうその人は何も返してくる術がない。

何と表現すればいいのだろう。蒼く沈んだ透明なそこに、かそけき糸で結わえられて吊り下げられたTとのことをずっと携えて、しかし自分には今信を置くかけがえのないパートナーがいて、共に前へ向いてゆくことが両立していく、その次元のねじれを。

今年は、このことを命日に思う時、いつもの今までの年よりも考えがまとまらない。整理がつかないとかいうことではなく。思い出されるたびにいたたまれなくなるほど辛かった自分をもまた、遠く眺めているようなこの気分。

故人は心のなかでまだ生きているとか、そうした綺麗事を言うつもりもない。しかし、どこかへ追いやってしまったのでもない。取り残された思いと、前へ行く自分との間は確実に時系列的に距離は開いてゆくのだが、そのどちらへも自分は自分としてつながっている。