ネットがつまらない


ネットがつまらない。その傾向はもうずっと前からあるけれど、最近、とみにそう思う。

かつて、個人ホームページがもてはやされた時があった。今のようにブログシステムが発達していなくて、手打ちでしこしこ作ったようなサイトが多くて、CSS制御なんかもなくて、ルックスは色使いやフレームレイアウトなんかを含めて未熟だったかもしれないし、突然音楽が流れたりして、恥ずかしいサイトも多かったけれど、それなりにページオーナーは自分のことを自分で表現していて、ホームページを渡り歩く(昔はネットサーフィンなんて言葉もあったっけ)のが楽しかった。

mixiが流行ってきた頃、それもそれなりに楽しかった。つながりを利用することで、今まで日常的に連絡するほどではなかった人達とも交流が容易になったし、日記を読むと、その人なりの味が文に現れていて、あるいはその人はそんな興味を持っていたのか、そんな日常を送っていたのかということが分かって、それまでインターネットに対して熱心でなければネットで自己発信をすることがなかった人達を、より知ることができた。まあそれでその人の実態や中身を知ってしまって、逆に繋がる以前よりも距離を置きたくなってしまった人もいたけれど、今言いたいのはその功罪についてではなく、そこに人が自分を自分の言葉で表すということは確実に存在していたという、そのことだ。

相前後してブログシステムも発達してきて、ネットの知識がそうない人でも、ワードでも打つような感覚で個人のウェブスペースを持つことができるようになった。そんな初期にも、面白いブログは割とあって、探し当てると興味深い思考が繰り広げられていたりしたものだ。

しかし、次第にいわゆるコピペばかりが目立つようになってきて、つまらなくなった。人は考えることをやめ、誰かが書いたことを繰り返すと、(そう、最初は誰かが考えて書いたことはどこかにあるはずなのだが)それが自分の考えを表明しているかのような事態になった。知りたいことを検索すると、たちどころにほとんどのことは分かるようになったが、見てみるとコピペのコピペ、そしてその劣化コピーと、同じようなことばかりが出てきてうんざりする。

そして、長文を貼ることさえもめんどくさくなって、つぶやくようになると、大半の人は日記を書くことも辞めてしまった。散発的につぶやけば、累積した事々を取捨選択し、自分の頭で解釈して日記を書くほどのものでもない、そういうことなんだろうか? まるで大半の人は、書くまでもないつまらない日々しか過ごしてなかったから、細切れの時間の、細切れの印象を、細切れの単語の羅列で垂れ流せばそれで満足するようなレベルでしか生きていないんだろうかとさえ思ってしまう。
そして、細切れの言葉さえ、リツイートによって単なる反復になり、ネットに流れている情報のうち本当に有用なものは、利用している人・情報量とも、0.1%もないんじゃないかと思えるほどだ。意思を表す時ももはや言葉は要らない。「いいね!」を1クリック。あるいはthumbs downのアイコンを1クリック。

Facebookだ、Google+だと、それらは技術的にレボリューショナルなのかもしれないし、それらを合わせて何十億人が輪になっていると言われていたとしても、そこに「意味」はどれほど生じているのだろう? 真の言葉はどこにある? 言葉を支える人の意思はどれだけ現れている? 人のよすがは?

俺は仕事でウェブコンテンツを作って飯を食っている、少なくとも今のところ。ウェブは好きか嫌いかといえば、好きな方なんだと思う。生活で大いに利用してもいる。しかし、この、考えのないブツ切れの金太郎飴は、好きじゃない。コピってリツイートしてトラックバックして。情報を得てまたどこかへ流しても、それは自分がそうめんを流す竹の管になっただけなのに、自分の身になったと思っているなんて、おかしいと思う。(まあ、そうめんだけじゃ栄養は偏るけど、それは別の話)

ねえ、今まで言葉を発してきた人達。あなたたちは、どこにいるんだ?