4周年にして思う


俺とじょにおとは知り合って以来あまりにもスムーズに関係性に入ったので、どこからが付き合い始めなのかというところがはっきりしない。なので、知り合った時期を以って記念としている。1月の第1週の週末辺り、という曖昧な感じで、日付は特定しようと思えば過去所持していた古い携帯など引っ張り出せばいいのだが、その辺あまり厳密に記念日を決めていないのも、知り合った当初からのグラデーションと同じ。

今年はカレンダーの関係から、俺は正月休みでダラダラ過ごしていた末の土日あたりが周年ということで、特に何かの食事をした訳でもなく、まあそうは言ってもしっかり・ちゃっかりシャンパーニュくらいは開けて。(笑)

Sec(甘口)なので、デザート向けチーズとトリュフチョコレートとともに。
Sec(甘口)なので、デザート向けチーズとトリュフチョコレートとともに。

シャンパーニュは過去に飲んで気に入ったPhilipponnat Sublime Réserve Sec 1996(フィリポナ シュブリム・レゼルヴ・セック 1996)。詳しい情報はその時のブログを参照。同じビンテージなのにミュズレが違っていたのは、デゴルジュマン(澱抜き)の時期が違っていたのか? しかし、味は前と同じ優美さだった。

それはそうと、パートナーシップに関する限り、自分の過去を振り返ると、じょにおに出会うまではとても不安定で、必死に形作ろうともがいて結局成らなかった。平均だの普通だのを拠り所にする訳ではないが、例えば婚姻適齢などを考えてみると、40を過ぎてお互い思いやっている幸せでしっかりした関係を築くのは、稀有な部類だ。ことに、過去パートナーの死という大きな喪失体験をしていて、血縁関係でも困難な時期が重なっていたことを考えると、もうその先どうでもいいと思ってしまって、どうでもいい生活をしてしまっていても、不思議ではなかった。

しかし、何かが自分自身を諦めさせなかった。後生の未練とでも言えばみみっちく、かつ後ろ向きだが、そんな弱々しい意思が自棄に至らせないブレーキになったのは何故なのか、それはよく分からない。危なっかしく、余裕がないように見えて、「終局的にはどうにかなる」というオプティミズムが備わっていて、それがその貧弱な意思の下支えになっていたのかもしれない。

ともかく、今思えば、投げなかったことは良かったのだが、どうもそのオプティミズムというか、どこか幸いにヌケているところがあって、それが自分の場合独特なんじゃないかと思う。
例えば「もう嫌だ!」と普通考えるようなシチュエーションでも、その只中にいると「これはこれ、こんなもん」とあっさり受け入れてしまっていて、状況を脱して振り返ると「あれは過酷だったなあ」と後になって初めて気がつく、あるいは人に言われて「そうなのかな」と思う。
あるいは、裏の意味を込めてイヤミを言われても、言葉を字義通りに捉えるたちなので、イヤミだとも思わずにさらっと流して(流れて)しまう。酌み取れかしと思って言った方にしてみればそれが一番焦れるのだから、最強な返し方といえばそうなのだが、本人本当に気が付いていなくて、「待てよ、あれって今思えばイヤミだったのか?」と思う頃にはとっくにそのことは過去になっていて、もっとひどくすると、その人との交流関係さえ通り過ぎてしまっている。

総じて言えば、自分にとって逆風であることをくぐり抜けるために、自動的に不感になる術が見に付いているというか。そうは言っても、腹の立つことがあれば腹は人一倍立つし、乗りきれずに苦難に苛まれたことも人並み以上にあった。だから今の安定した関係性はありがたく思える。

それに、関係性とは相手あってのこと、自分はのうのうと何も努力しないでいても勝手に相手が回してくれるものではないし、どうやらじょにおという人間を4年に渡って見るに、ニコニコと俺を全受容してくれてはいても、その関係性に入るまでには結構ハイブラウなスペックがなければ満足はしなかったと思う。(知り合ってそのままスムーズに関係に入ったとはいっても、そこにはお互いの持てるものの特質が自分に必要かどうかは、実に繊細な感度で、そして驚くべき速度でお互いに感知したのだろう。そうでなければ一緒にずっと生きていく所にまで踏み込めはしない)

そうした事々を総じて考えるに、出会いは運でしかなかったとしても、その運に行き当たった時点での自分を備えておくことの重要さを、俺はうっすらと予兆し、這いつくばりつつ前に進んでいたのではないかと思う。そのためには、苦々しい過去をやり過ごすオプティミズムも、必要であったのだと。そして、そうした自分の辿った道を思うに、相手を望みつつも今独り身の人や、なかなか望んだとおりの付き合いができずに付き合いに苦労している人も、くさらずすごしていってほしいとも思う。それから(しかし一方ならず)、蔭になり日向になりして、日夜愛情を降り注いでくれるじょにおに、感謝と畏敬の念を捧げる。

ここまで読んで、これは俺のブログだから、じょにおのイメージが沸かない人もいるだろう。じょにおがどう俺を惹き付けるのか? どんなポテンシャルの奴なのか? そこで、一つ、じょにおの言を紹介しておこう。ある日、付き合いについて話していた時に言ったことだ。まだじょにおが20代だったと思う。一言半句違わないわけではないが、それはこんな言葉だった:

例えば将来JOEに誰か好きな人ができて、
それから先別の人と一緒に生きたいというなら、僕はそれでいいと思う。
それは、そうした時が来たということ。
動いてしまった気持ちは、片方の意志では繋ぎ止めることができない。
でも、そこまで歩んできた事実は変わらないし、
少なくともそこまで共に築いたことも、誰にも変えられないから、
それは付き合いが無駄だったってことじゃない。
僕はだからその時、誇りをもって笑顔でいられると思う。

と。今どき、こんな達観したことを、修羅場でも何でもない平常時に相手に言い、かつ相手を愛し続けることのできる20代がいるだろうか???? その度量、恐るべしなのだ。
20代の時にそんな風では、とてもまだ全貌を知ることはできない。そして、俺も凌駕されないよう、必死でなお進化/深化しようと思うことにもなる。人の不幸はナントヤラと考える人にはお気の毒だが、こうしてまだまだ関係は続くのである。