「世の中色んな人がいるもんだ」と呪文を唱える


具体的な例を話すとあまりに下世話になるから、なるべくそうしたところをクリーンナップして抽象レベルに落としこんで書くことにするので、読んでいる人には少々分かりにくいかもしれないが、ここに書くことは、「ふーん、まあだいたいそんな感じか」くらいに思ってくれるとよいと思う。

自分自身と親和的な組織や人とだけ接していると、つい自分の世界の価値観が誰にとっても通じる普遍的価値であるかのように思ってしまうが、当然ながらそうではない。ちょっと電車に乗りでもすれば、そうでないことはすぐ見てとれる。身の回りには、「自分ならそうはしない」と思う格好をして、「そうするべきではない」と思う行動を取っている人達であふれているのだと認識するだろう。趣味趣向、主張、傾向、宗教、マナー、性質、性格、思想、癖、言葉遣い、教育程度、その他諸々様々な要素が絡み合って人間は形成されているから、自分の行動指針に合致する人間の方が、実は少ない。

価値観が違いすぎる人間とは基本的に非接触・没交渉であることが、自分の平和な世界を維持するのに最善な方法だ。が、たまにオフェンシブな人間がいて、非接触・没交渉でありたいのに否応なく突っかかってくる人に対してどう対処するかは、少々厄介だ。その辺りはこの日記の主眼でないので、はしょる。
ここで主に目を向けたいのは、「自分と違う人間は常にいる」という当たり前のことを常に認識しておくことが肝要だということだ。でないと、突然そうした種類の人間やその人間の動静に被曝した時、それが想定外だったゆえに、心乱されることが大きなストレスになるからだ。

個人的な体験でいうと、そういう異質にぶち当たってストレスを生じるのは、自分が少々浮き足立っている時が多い。まるで世界は自分と調和的で、理解者が大多数であるかのように異者を忘れてしまうと、「天災は忘れた頃にやって来る」ではないが、突如それは頭上に降ってきたり、眼前に立ちはだかったりする。
相容れない異者も世には存在する、いやむしろその方が多いのだと、どこか頭の片隅に入れておいて、時々横目でちらちら眺めて耐性を作っておく方が、いざという時にたじろいだり、頭に血が上ったりしなくて済むので、そういうことをお勧めしたい。「世の中色んな人がいるもんだ」と、そこで呪文を唱えるのだ。何も理解し自分の中に受け入れなくてもいいから。

その時のコツは「何でこいつは◯◯なんだ?!」と問わないこと。自戒を込めてこれを書くのだが、ついやりがちでも理由を掘り下げようとしてもそれは不毛だ。自分とは価値観とロジックの違う、あるいはロジックという概念がない世界で生きている人だからこそ、その人の理解不能な結果を目の前に現わすのであって、その不可解な結果の理由は、目の前の理解不能な事象の、さらに向こう側にある。
なので、そんな掘り下げをしないでもいい。事物を受け止めたらその人に対してでなく事物に対してだけアクションを決めればいい。テレビの映る原理は分からなくとも見るチャンネルは選ぶことができるし、見たくなければ消せもするのと同じだ。あるいは、「罪を憎んで人を憎まず」と同じというか。

そして、「世の中色んな人がいるもんだ」と言う呪文のコツには2つあって、まず1つは、「色んな」というところ。「世の中バカもいるもんだねえ」などと、自分の価値観を挟まないこと。価値観の相違を認識する時に価値観を混在させては、呪文の効果が薄れる。人を軽蔑することは、対象物との隔たりを頑なにすることなので、それ自体がストレスになる。単に「色んな」で済ませば、フリクションをやわらげられる。ポーンと、そこに放っておいてやるのだ。

つまり、いわゆるダイバーシティーという概念が「世の中色んな人がいるもんだ」と言う呪文に収斂している訳だ。ダイバーシティーとは多様性と訳される。誰かが「多様性を認めるというのは、コンチクショウと思う相手と同居すること」と言っていた。確かに結果そうなのだが、常々コンチクショウと思い続けていては神経がもたない。存在はそこにあるね、そして異者のことはそこにおいておくことにするんだよ、と自分を護って力を抜いてやることが「世の中色んな人がいるもんだ」なのだ。

「世の中色んな人がいるもんだ」のこつの2つ目。対処すべきはあくまて事象だが、事物と人とは完全に切り離せる訳ではなく(例えば罪を憎んで人を憎まずといっても、罪自体を刑務所に放り込むことは物理的にできないから、その人を放り込むことになっても当然なように)発せられた人がいる以上、人を無視する訳にはいかないから、「色んながあるものだ」とは言わず、「世の中色んな人がいるもんだ」と言うのである。

ディベートや会議で異論が出てきた場合などに「コンチクショウ」とやり合うと、たとえ相手をねじ伏せることに成功しても結果気分は良くない。ねじ伏せられた方も、妥協はしても納得はしないから、得てして得られた正義としての行動成果も短命に終わったりする。
そこで、賢い人はそうしたぶつかり合いを選択する前に、「ふーん、確かにそういう意見もありますね」と一旦前置きして、対象物の異質さを認識して頭をクールにし、自分の次の策を練りつつ、スムーズに自分の意見を通す下準備をする。「そういう意見もありますね」と言ってもそれは内実「そういう発言がありました」という意味でしかないので、相手の意見への譲歩ではなく、ましてや合意ではないから、、「ふーん、確かにそういう意見もありますね」と言っても安心だ。
一方で、そう言われた方は、ここでは異論が問題なのであって自分の存在価値までは否定されていないのだとその言葉を受け取り、態度がやわらぐ。これと同じで、「世の中色んな人がいるもんだ」と、とりあえずは思ってみる。人と事との違いは前段のとおり。

さて、自分をクールに保つために3度ほど唱えておくか。
「世の中色んな人がいるもんだ」
「世の中色んな人がいるもんだ」
「世の中色んな人がいるもんだ」

 ふう。と一席ぶってはみたものの、こういう類のことはメンドクサイねえ。(笑)