情報アンテナと断片的に見える物事が繋がっていくことについて


3ヶ月ほど前、ふと気になってSF作家円城塔の本『Self-Reference ENGINE』を1冊読んだ。ぐるりと円環的に広大な世界が繋がっている話だ。そして数ヶ月後、円城塔と関係あるとは思わず、伊藤計劃の『虐殺器官』を読んだ。こちらは死体が満載で、血なまぐさいスプラッター的世界が展開されているが、俗に見えてどこか退廃の美や文学を感じるもの。円城の本とはまるで異質だが、どこかつながるようなものを感じた。2冊は両方とももう数年前に刊行されたもの。SFはさほど書籍で注目されているフィールドでもないだろうし、ただ興味を引かれたままに別の日に買った本だ。

俺は、本に関しては気が向いた物を気が向いた時に読むだけで、読書家の部類ではない。文学界というものには全く関心がなく、従って全然詳しくない。だから、本を選ぶのはもっぱら感覚で、字面がいいとか、ストーリーが面白そうとか、ふとカバーが気になったとか、そうしたことが本を読む気になるかどうかの唯一の手がかりとなる。円城塔のプロフィールも、本を買ってカバーの裏に書いてあるので、「ふーん、こんな人か」と知ったくらいだし、伊藤計劃が早逝したのも、本を読み終わって巻末の解説で知った。

その後、SF続きもなんだし、と、関係ない本を数冊読んで、今は、やはり気まぐれに手にしたエドガー・アラン・ポーを読んでいる。有名な『モルグ街の殺人』を収録した短篇集だ。舞台は19世紀半ばで、ヨーロッパの都会にもまだ十分闇が存在した頃で、ゴシックの時代ではないのにどこかゴシックめいた匂いがするのが面白い。死体の残酷さを鮮やかに書いたのは当時画期的だったろうなと感じる一方、殺人の絡む探偵小説というのはクラシックなものだな、と思いつつ読んでいるところだ。

昨日、会社の昼休みに本屋に出かけ、小説単行本のコーナーを見たら、伊藤計劃の絶筆原稿を円城塔が引き継ぐ形で遺稿を完成させた『屍者の帝国』が、大きなポスターとともに出ていた。たまたま読んで面白かった2人の共作というそれが今出たことに興味を引かれながらも、その時は買わなかった。

そして、夜にテレビ録画の『ヴァン・ヘルシング』を観た。時代設定は1888年。ちょうどポーの書いている時代だなと思いながら見た。不死の妖怪じみた怪物が色々出てくる。ゾンビは出てこないが、そういえば、最近ブードゥー人形の話を友人とツイッターで取り交わしたな、などとうっすら思い出しながら観ていた。

今日。RSSリーダーでニュースをチェックしていたら、円城塔のインタビュー詳報が毎日新聞のサイトに載っていた。昨日の昼間見かけた『屍者の帝国』の刊行に際してのロングインタビューだ。円城と伊藤が交流していたのを初めて知って興味深く記事を読んでいたが、『屍者の帝国』の設定を見て、あれ?と思った。時代設定は19世紀末。シャーロック・ホームズのワトソンが出てくるというではないか。そして、死体を働かせる話だという。

SF、作家、19世紀末、探偵、死体。

キーとなるモチーフが先後しながら数ヶ月かけて時と場所を異にして現れ、それらが少しずつオーバラップして繋がっている。それらの一つ一つを嗅ぎ取った時に自分は何を感じていたんだろうか。話題になるタイミングという意味での時代性を嗅ぎつける感覚は、ある程度備わっていると自負しているが、人生というか世の中というか、そこには何かの縁というものがあって、ぐるりと繋がっているのではないか、それをたぐり寄せる感覚が情報アンテナというものなのではないか、とふと思った。縁は異なもの味なもの、とは人間関係だけに言えることではないと思う。ここで、一つ、想起してもらいたい。この一連の最初に読んだ本、円城塔の『Self-Reference ENGINE』の趣旨は何であったかを。

結局今日の昼休みに再度本屋に行って買ってきた『屍者の帝国』。
結局今日の昼休みに再度本屋に行って買ってきた『屍者の帝国』。

ページを繰る。するとヴァン・ヘルシングが登場人物に出てきた。偶然とはいえ、濃厚な偶然だ。