オーランドゲイクラブ銃乱射事件の私的考察


オーランドのゲイクラブ銃乱射事件は、アメリカ史上最悪の死傷者を出し、未だ衝撃が大きい。当初は「単なる」同性愛嫌悪としてのヘイトクライムと見られていたが、時を追うにつれて、犯人オマル・マティーンは、ゲイクラブPulseで以前から10数回少なくとも見かけられていたが周囲とは馴染めなかった様子で、酔うと好戦的にになり友達がいなかったとか、ゲイ向け出会いアプリを使って相手を探していたとかとの証言から、ゲイによるゲイ嫌いの激高事件として、その性質が取り沙汰されるようになった。

もちろん、犯人がアフガニスタン系出身でモスクに通っていたことから、同性愛を許さないイスラムの教えの影響は明白だし、過去に過激派接触の疑いからFBIから聴取を受けていたことからすると、実際問題不特定多数を襲撃して死傷させたのだから、これを社会的に見てテロと言い切ることができる。ゲイを嫌悪するが故にゲイをターゲットにしたことは疑いもなくヘイトクライムだし、妻に対するDVの過去もあり、反社会的性格が遂に域を超えたとも言えるだろう。銃が安易に手に入るが故の事件であることも、既に散々報じられてきた。

しかし、やはり一番の問題は、ヘイトクライムはヘイトクライムとしても、ゲイである自分を受け入れることができずゲイコミュニティーにも馴染めなかった犯人が、その憎しみをエネルギー転嫁し襲撃に及んだという、いわば「引き裂かれた自己の暴発」であったという点だ。

この事件が、LGBTを許さない宗教 vs LGBTとか、ISのような過激武装集団が起こしたテロであるとか、ゲイを嫌悪するストレートの犯行であるとかの単なる敵対構図からのみ来るものだったならば、追悼と対になっている「連帯しよう」とか「屈しない」という反発姿勢の将来的ターゲット(もう犯人は死んでいるのだから「将来的」だ)は明確で、声を上げる人々も行動しやすかっただろうが、実際はそう簡単なものではなかった。

犯人の所業には強い憤りを感じるし、失われた命や、精神的にも肉体的にも深い傷を負った負傷者の方々のこれからを思うと、犯人に同情の余地はない。しかし、そこまで内なる自分を受け止められずひね曲がり、憤りを理不尽な形で爆発させる前に、この犯人に何らかの救いのチャンスはなかったのか、とも思う。
怒りというシールドは、内なる恐怖に震える自己を守ろうとするものだ。性格、生い立ち、社会的境遇、思想、性的指向その他が複雑に絡み合った結果としての人格形成なので、どこから解きほぐせばよいのかも分からないし、解きほぐすことも容易ではなかろう。何が彼に彼自身を許さなかったのか。

自分を許せない自分に焦れ、それが怒りとして外に出て行く経験は、程度の差こそあれ、誰もが経験しているのではないか。少なくとも俺は、不器用な自分に憤った結果不機嫌になる位のことはしょっちゅうだ。それがもっと明白な形で周りに出ると、それは世間では「八つ当たり」と呼ばれる。
それに対して、内にくすぶり続ける形態も問題だ。この事件の少し前、別件で、自分を責めることを「精神的自傷行為」と表現しているのを見かけて、はっとした。自分をダメだと思うこと、不完全にしかできない・できなかったことをいつまでも繰り返し悔やむこと、そうした事々が、いつの間にか癖になっている。

厳しい躾と、「できて当然」という基本姿勢で育てられると、周囲に味方がいない環境では、自分ですら自分の敵になる。能力を高める研鑽にはある程度のプレッシャーも必要かもしれないが、そのままでいてよい自分を認めることは、その環境ではとても難しいのだ。つまり、内なる自分は孤立する。
そこでもし、自分の性的指向が周りの多くの人とは違うという事実に直面した時、「そのことは少数派ではあるかもしれないがおかしなことではない」と思えれば、一つ大きな障壁はなくなる。しかし「それはおかしなことだ、そんなはずではない」と否定される環境にいて、その自己否定が孤立した自分と結合したら。内的プレッシャーは膨れ上がり、いつ爆発してもおかしくない状態になるだろう。

幸い自分は性的指向に悩むことなく、嫌悪する機会はたくさんあっただろうが、何故かそこはすんなりと受け入れることができた。そして、大学生になって自由に夜歩きできるようになった頃、同時にゲイの友達もでき、コミュニティーを楽しむことができたので、少なくともゲイのゲイ嫌いになることはなかった。しかし、自分にだって、そううまく行かなかったら、ゲイのゲイ嫌いとしてヘイトに加担する人物になる可能性はあったのだ。

事件を悼み悲しむ気持ちは、まず犠牲になった方々に対してだが、もうひとつ、この事件で悲しいのは、これが引き裂かれた自己の悲惨な末路だったことについて。あまりにもむごたらしかった。それが、LGBTとしての自分から事件を観た時に、心に暗い影を落とす。