許される娯楽?


今、皆が努めて冷静になろうとしているがその下に渦巻く物を内包している様子は、前の日記に書いた。その一方で、一度消費生活に慣れてしまった人は、自分の生活パターンを変えづらい。↑の様子を「うずうず」と書いたが、人にはもう一つのうずうずがあって、それは、買い物をしたいだとか、何か楽しみを(不謹慎と思われない範囲で)体験したいとか、そういう方向のものだ。

自分にもそれはあって、節電はじめいろいろ節制に努めてはいるものの、必要物を買う際にちょっと気の利いた所で買いたいとか、ずっと家にいて東電のデタラメ場当たり対応のニュースを見ていると腹も立つし不安になるばかりだから、電力消費やライフスタイルとしてあまり後ろめたくない所に行って気分転換したいとかいう気持ちはある。

そこで、この土日は台所用品の補充のため某所へ出かけ、招待券があったので国立近代美術館に岡本太郎展を観に出かけ、デパートにも寄った。まず、岡本太郎展のこと。会場にはたくさんの人が来ていて、生誕100年にして再評価が高まっているというのを実証する感じだった。美術展の形で岡本太郎の作品を総覧するのは初めてだったのだが、作品から発せられるエネルギーの強烈なうねり、美術や生きる姿勢に対するひたむきさに感動を覚えた。展示の仕方にも工夫が見られ、ダイナミックで、退屈な方法の多い日本の美術展にあって、斬新でよかったと思う。

展示作品の一つ、『作家』(1948年)。
展示作品の一つ、『作家』(1948年)。

上記の作品は、岡本太郎が父親の一平(漫画家だったとのこと)をモデルにしたといわれる作品。縮小画像で見ると何だか不気味に見えるかもしれないが、実物はどこかユーモラスであたたかみを感じる作品で、岡本太郎の作品の中では具象的な感じがし、印象に残った。

帰りに北の丸公園から九段下まで歩いた。お堀に白鳥が一羽。
帰りに北の丸公園から九段下まで歩いた。お堀に白鳥が一羽。
今回の震災で天井が崩落し、死傷者の出た九段会館。
今回の震災で天井が崩落し、死傷者の出た九段会館。

九段会館の前を通ったので、写真を撮っておいた。1934年竣工と古く、先後GHQに接収されたという歴史のあるこの建物も、今回の崩落事件を機に、ひょっとしたら建て替えや取り壊しになるかもしれないが、日本遺族会に貸し出されていたりするので、その際には一筋縄では行かない気がする。なお、崩落の痕跡などは外からは窺い知れなかった。

さて、この後新宿に行って、買い物をしたのだが、某デパートの地下はまるで年末かと思うような人出。贅沢な品々は結構な売れ行きで、要するに買い物客は今許される娯楽をしに、そこへ来ているのだろう。「許される」といっても、相対的な問題で、「被災地ではおにぎりが行き渡るとか渡らないとか言っている時に何という飽食」と非難するむきもあるだろうが、それは結局、震災が起きていない時に食べ残しを見て「アフリカでは…」と言うのと構造が変わらないのだろう。「贅沢は敵だ!」と言ってデパートで人々が贅沢品を買うことをストップさせることはできないのだ。

結局それでは何故デパートで美味食菜を買うのは許されて、パチンコやクラブは許されないのかと考えるに、究極的には程度問題という基準の曖昧なグラデーションでしかなく、グラデーションのどのグレーよりも黒はアウトなのかという線引きは、各人の判断に任せられるしかない。が、それではあまりに乱暴だから、もう少しその性質の面から見てみると、対価物の別による問題もあるだろう。その金を払った対価として食料を得るがそれが必要最低限度を超えて贅沢であるということなのか、無形的な快感を得るがためなのかという別について、前者の価値は分かりやすいが、後者は価値が分かりにくい。後者が個人にとっては精神上のことも大事なのだと言ってみても、それが享楽的でしかもエネルギーを消費するものとなると、今説得力を以て言い切るのは難しいだろう。じゃあデパートでのそういうのはどうかというと、これも密かなる楽しみで内々で楽しむにはいいかもしれないが、「こんなの買っちゃいました~! 超ウマでお勧めです♪」などというのは軽率の誹りを免れない。その辺りは空気を読めという方面のことなのだが、友達にメールするならともかく、全公開のツイッターなんかでやるのはどうかと思う。

まったく、早くどうにか原発方面も片付いてほしい。コンクリート流し込んで早く石棺にすべし。未だに「真水に切り替えて…」とかやっているなんて、考えられない! 後手後手具合はチェルノブイリよりひどいのではないか。自民の金権癒着政治もこりごりだったが、こんな時に限って右往左往で踏ん切りのつかないダメ政権というのは、まさに泣きっ面に蜂だ。