覚悟でやること


先週末は、何をする気にもなれない週末だった。脳が思考を放棄したかったのだろう。金曜日の夜には、近所に住んでいたあべおの門出をうちでささやかながら祝った。あべおは専門職に就くために、国立の専門学校に今月から入る。そのために数年間勉強をしながら、派遣社員で仕事をして貯金していた。これからは学校の寮に入る。こんな事態の時に学業に専念する道を選ぶのも大変だろうが、考えあって数年間かけて形になったことでもあるし、未来の自分を花開かせるよう、邁進してほしい。おめでとう、あべお。

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このところ、「経済が失速するのはマズい」だとか、「自分が元気を失っていてもしょうがない」という観点で、震災が起きてからの行動を「自粛」することに異議を唱えているのをよく目にする。花見を自粛する呼びかけがある一方で、岩手の被災者から花見をやめないでという趣旨の訴えがあったりもする。むやみやたらに人の行動を規制して自粛しろしろと娯楽方面すべてについていうのは、もちろんおかしい場合もあるが、じゃあ何もかも野放図でいいのかというと、それも違う。時期的に花見がどうのでいろいろかまびすしいのだが、経済を支えるとか何とかいう大義を掲げて飲みに興じたり花見で騒いだりする奴は、3つの意味で間違っている。つまり、

  1. 人に対する思いやりに欠ける。生きるの死ぬの、明日のご飯が食べられるかどうか分からない人が何十万人もいるなかで、「自分は関係ございません」とそっくり返るのは、同じ日本に暮らす人としてあまりに無下な、エゴに基づく開き直りだ。阪神・淡路大震災の時、神戸方面から必死の思いで大阪に出てきてみたら、あまりにノホホンと繰り広げられる日常光景に気が狂って叫びだしそうになったという、当時の主婦の新聞か雑誌に寄稿された言葉を憶えている。
  2. 経済下支えもしくは没落防止を言い訳にするが、「あなた花見は金使って経済のためにやるのが主目的なんですか?」と言いたい。何でもかんでも金勘定で、経済優先で消費するのは、効率がいいからというのを建前に原発作って運転することと、行動の動機付け構造が同じだ。
  3. 花見をやる・やりたいのにそれを「経済から」とか「自分が元気でないと」とかいうが、ほんとうは理由なんてなくて、ただやりたい、春は花見、酒飲んでアッパッパアとやらかしたい、しかしそれだけだと後ろめたすぎるから理由をつけてやろうとしているが、行動の大義なんて本当はないんでしょう?

「俺にとっては春は花見なんだ、酒なんだ、ただそれだけだ」というなら、それはあっぱれ。(震災のあるなし関係なく品性の問題は別として)「だってお買い物したいんだもん」とグッチのバッグを買う、それまたけっこう。(グッチを選ぶというセンスがいいかどうかはこれまた別として)かえって小気味がいい。それをクチャクチャ防戦張って、しかもそれは脆弱な穴だらけの屁理屈にもならないような屁理屈の腐ったので、そんなのに俺が何か言葉をかけるなら、「きさまら見苦しい」。人が自粛する・しないは人それぞれの規範だが、自分がやりたいがためにそれをやるんだったらその覚悟でやりなさい、ということだ。それから、花見で言うなら、酒飲んで弁当食ってドンチャンやらなくても、ただ静かに花を愛でて散歩したり立ち止まったりという方法もあることを忘れるべからず。

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で、原発の経済効率を優先するがゆえに作ってやらかしたこの一連の現在進行形大惨事だが、今のこの惨劇に至ってみんな原発には後ろ向きになった人が多いと思うが、上にちょっと触れた言い方だと、「じゃああなたは昔から経済効率での原発に反対はしてこなかったんですか? 今の時流に流されてそういう他例えをするんじゃないんですか?」と言うむきもあろう。それに対して一つ言うと、俺は前から原発については、使用済燃料の処理方法も決まっていないままボンボン運転し続けていることや、万一の事故についての対策未熟について常々否定的で、2007年には坂本龍一をはじめとした有志の柏崎刈羽原発の廃炉を求める廃炉署名運動に署名している。後先考えずの思慮浅薄が横行している様が、最近つとに気持ちが悪いが、後手後手の、場当たりの、その場しのぎの、とりあえずの、稚拙な対応ひとつひとつは、元からきちんとしたポリシーをもとに考えぬいてこなかったことに端を発していると思う。考えが浅いのもいかにもみっともないが、考えの放擲はなおまずかろう。