復興の言葉は性急すぎる


自分の力ではどうしようもない激烈な出来事が起こったとする。そうすると人間は大きく分けて(うまく行けば)4段階を経る。混乱→虚無→受容→前進だ。

混乱は文字通りで、そういう体験がない人にも分かると思う。虚無もまあ分かるだろう。とにかく、真空のような、無味乾燥な闇で、これからの自分が振れるのがプラスの方向なのかマイナスなのか分からず、とにかく音が消え、味がせず、夏ならじりじりと汗が流れるとか、冬なら足が大理石のように冷たくなるとかはあるが、ただ自分は死んでいないということだけだが人間的には生きてもいない感じの時間だ。そこから、プラスに振れれば次の受容がやって来るが、マイナスに振れれば生きることをやめることになる。この虚無の時間の長短は、主観的に感じられる長さも、客観的に時計やカレンダーで測れる長さも、人によって様々だが、必ずここを通らねばならない。混乱から死に至る人もいるかもしれないが、それは事故による死と同等の死で、人としての精神活動を経ることもままならなかった人の死で、大抵はこの虚無が混乱の次にやってくる。

そしてその次の受容とは、困難の元を受け止めるというよりは、自分がそういった困難に直面してなおかつ自分が今あるという、自己認識をすることだ。人間に限らず生物にはその生命を生き長らえようとするようにプログラムされていて、今あるという認識があればそれはその先へとつながっていく。そして初めて、その自動的な生命のプログラムを自分で意志的に持って行こうとするのが前進というものだ。

今、この震災で激烈で悲愴で壮絶な体験をしている人々は、第1段階の混乱のただ中にある。被災者はもちろん、被災しなかった人だって、これから自分の商売はどうなるんだろうとか、無味乾燥な平々凡々とした人生を違う道へと進み自分を花開かせるんだと思うことはこれで頓挫するんだろうかとか、そういったことを感じている人も皆、混乱の第1段階の渦に巻かれ、攪拌されている真っ最中なのだ。誰もが生き続ければその先に前進があることは違いないと思いたいし、そこを信じてやっていこうという言葉をかけたい人の善意も痛いほどよくわかる。

しかし、今必要なのは、水と食料と生理用品と下着とトイレと燃料と通信手段と金だ。復興という言葉は今はとてもとても重過ぎる。「復興を願います」という言葉を平和で余裕ある人にかけられて、「善意で言ってくれているのだから」という咀嚼を経なければならない、今そこにある苦痛と恐怖と寒さと飢えとで喘ぐ人に、その咀嚼は大きく障害となる。先の先の、そのまた先のことよりも、今をやわらげることが、必要とされていることなのだ。頑張れと言われたって、皆頑張りきって、本当にエッジのところにいる人にそれ以上頑張れるものではない。そういった状態を斟酌しないで、遥か先の楽観を述べて何かやった気になること、それを何というかというと、偽善、というのだ。復興、なんて言う人の空々しさを見るたびに、腹が立つ。金出せ、水出せ、食い物を出せ。