切れた人は切れた人


SNSなどで繋がっていると、友人の様子は震災後生きているのかどうかくらいは、日記は書かないまでも、何となく知れる。それにしてもこれくらい大きなことがあったら、ちょっと何か意思表示くらいすればいいのに、とも思う。(が、これについては後述)

そうしたインターネットで繋がっている人や、そうでなくとも連絡を時々取り合う仲の人以外に、ここまでの災害となると、今まで付き合いがあったけれども何となく付き合いのなくなった人や、意図的に(言葉は悪いが)切った人はどうなった、あるいはどうしているのか、何となく気になる。

で、その人がブログをやっている場合には見に行ったり、友人の友人であったりした場合には、つぶやいたことをちらりと見たり、あるいは日記を読んだりはするのだが、まあ結論から言うと、やっぱり切れた人は切れた人であって、そういうところから知れる様子から言うと、再び繋がろうとはやはり思わないし、消息が知れたところで「ああよかった」とは正直思わない。(死ねばいいとまでは思わないにしても)人間関係を整理どうこうする時には、熟慮した結果であって、目の前で人道的危機があれば助けることはあるだろうけれども、再びコネクトしようという気は起きないものだ。

新宿二丁目のとあるバーの経営者は、地震当日に被害を受けた店の片付けをバイトに任せきりで、バイトが「やっとくからいいですよ」という言葉に甘えて途中で行くのを諦め、自分の家にUターン。あの日、車が大渋滞で行くのが非常に困難だったのは実体験したから、知っているけれども、この対応は違うでしょ。いくらバイトから「いいですよ」と言われても、即座にバイトを帰らせて、自分の店のことは自分でする、それが大前提でしょ。人として。何故なら、それは自分の矜持にかかると公言している店のオーナーなのだから。そして、そこでどんな働きをしても時給が変わらないバイトに、余震のおそれのある店の片付けをそのままさせておくなんて、人の安全を軽視しているにもほどがある。そこに思い至らないなら、考えが浅すぎる。おまけにその数日後には店のスタッフの誕生日祝いをやったというのだから恐れ入る。まあ多分、もうその店には行くことがないな。もともと、人には頼るが感謝は薄い、そういう人で、そこが嫌でそのバーオーナーを離れた人も他に知っているが、この場合にはつながりが複するどころか、いっそう遠い人になった。

「関西のコンビニからも水が消えている」という在関西の友人のつぶやきに「お水お送りしましょうか?」と返答した、とある東京の人。返答はユーモアなのか何なのか分からないが、的を射ていないのは確か。この人は、会うとセクハラしてくるのが嫌で(本当に股間を押し付けてくる)遠ざかったのだが、感覚が違う人なのだなと、あらためて知る。

等々、等々。


しかしこうして見ると、災害が現在進行形であるクリティカルな時に言葉を発するのは、極めて機微なことを多方面から考えた末でないと難しい。やはり、ちょっとした何かの意思表示が足元を揺るがせることもあるから、言葉で発することが得意でない人は、控えておいてというか、そのまま無言でおいて無理に発することはしない方がいいのだろう。こんな日記を書いたのを、今までそこそこの距離で付き合っていた人が読むと、「やっぱりJOEは厳しすぎて怖い」あるいは「そこまで人のことを言える人なのか?」と、距離が空く危険もあるかもしれない。言葉は諸刃の刃。

まあこんなことは書いたが、本当にいざという時、人の道にたがうことはしないつもりだ。縁の切れた人でも、その人が目の前にいて本当に困れば水のひとつも黙って差し出すだろうし、避難所で凍えそうなら身を寄せ合いもしよう。ただ、自分が人を見る目は、地震などでは揺るがせにはならないということだ。