東日本大震災 在東京の自分の場合


※ ここに書くことはあくまで自分の記録で、被災した方々の悲惨で過酷な苦難に比べれば、笑い事程度でしかない。何とかひとりでも多くの人が助かること、被災した方々に少しでもよりよい・多くの救いが届くことを、心から祈っている。

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今回の地震の発生時、俺は会社で資料作りなどをしながら、「今日は帰ったら何を夕飯に作ろうか、その後ジムに行こうか行くまいか」などとのんきに考えながら、このブログの新しい記事には、その前の日にじょにおと行ってきた山梨日帰りレジャーの様子でも書こうかと思っていた。その時、揺れが来た。あれ、地震? 揺れてる? 長いよ? という声が周りで上がり、そしてそれが大きいので、皆非常時用に支給されているヘルメットをかぶって机の下に潜った。そういうことをするのがカッコ悪いと思っているのか、潜らないで窓の近くに近づいて様子を見るような人もいたし、しゃがみこむだけの人もいた。また揺れて机の下で机ごと揺られながら、天井の崩落などを恐れた。うちの会社のビルは床面積こそ膨大な広いビルだが、昭和37年築という超年代物で、そのままでは耐震基準を満たさないので、最外殻の壁の内側に耐震壁を追加して作っているようなビルなのだ。揺られながら窓の向こうに見える隣のビルを見た。窓の向こうに下がっていた縦型ブラインドが、波のように動いているのが、斜めになった視界に写った。

それを数回繰り返し、これは尋常ならざる事態だと漸く知る。俺が統括している外注開発会社の常駐している部屋まで、ヘルメットを下げて行くと、幸い人員は無事だったが、そこには避難誘導責任者が定められていないという。身の安全を第一に考えて避難誘導指示の放送をよく聞くように言い、その後自分の机に戻ってインターネットで情報収集するが、次々大きなニュースが入ってくる。むろん仕事にはならず、しかし避難指示の放送はたよりなく、早期退勤の指示もなく、定時を待って帰宅することにしたが、電車はなし。なんとかじょにおと連絡を取って、新宿まで車で迎えに来てもらうことにして、大手町から新宿まで歩くことにした。帰宅困難者も多く出るようだったが、とりあえず、新宿まで行きたいという女子従業員数名を引率して、歩くことにした。

歩く道はどこも人が多く、車はもちろん渋滞。しかし、驚くほど皆、整然としていた。押し合いへし合いになることもなく、皆信号を守り、クラクションが鳴り響くこともほとんどない。ただ、東京のような都会で困るだろうなと思うのは、こうした人の多さと、それぞれ目指す方向が違うので、人があっちに歩いて行くからそれに従えばよいというものではなく、自分でより安全で確実な道を選ばなければならないということだ。途中、俺の携帯電話は何故か比較的着信発信ともにかかる率がよかったので、女子従業員に電話を貸して、それぞれの家人に連絡を取るように試みるが、すでに着信制限がかかっていて、固定電話宛はかからなかった。すぐに歩いてもしょうがないと思っていたのか営業している飲食店に入る人もいれば、自転車屋に列をなす人もいた。

女子は歩くのが当然自分より遅い。それでも歩調を合わせながら、道を指し示して選び、メールでじょにおと連絡を取り合って、落ち合うことができた。車に一緒に乗って行くことを強く勧めたが固辞した女子従業員と別れ、じょにおの車に乗った。じょにおと運転を交代し、俺がハンドルを握った。道は渋滞していたが、まったく動かないわけではない。じょにおの弟が赤坂付近に用事でいるというので、道を指示して、曙橋(新宿と市ヶ谷の中間くらいの場所)でうまく拾った。迂回したり、まったく動かない道を諦めてルート変更したりして、通常なら20kmほどの自宅までの道がとても時間がかかり、車庫に車を入れてうちに帰り着くと午前1時過ぎだった。5時半過ぎに会社を出てから、7時間半強かかったわけだ。

うちの中がひどいことになっていないことを祈りながらドアを開けると、幸いひどくはなく、本棚の本がバラバラ出ていたのと、グラス1つ、花瓶1つが割れただけだった。それでも、天井高までオーダーで作った食器棚は前に少し出ていたし、本棚も耐震レールが目いっぱい引っ張られていた。割れ物だけは片付けて、雑事をこなしてじょにおと2人でベッドに入ったが、無論何がどうなっているのかは気になるし、余震はたびたびあるし、携帯の緊急地震速報はたびたび鳴るしで、寝たような寝ないような形で、朝を迎えた。

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土日は備えのために適度に物を買った以外は、基本家にいて、3食じょにおと一緒に食事を摂り(無論そうしたことができることを感謝しながら)、外出を控えてニュースに見入りながら落ち着かぬ日を過ごした。食事の作りおきをし、停電に備えて冷蔵庫の物の保存用に氷を作った。月曜日の朝、会社の危機管理対策本部からは、自宅待機指示のメールが来て、自宅待機することとなった。遠出するわけにもいかず、前々から決まっていた九州への出張準備のためどうしても仕事をしなければならないじょにおは職場に行き、昼食は一緒に摂って、じょにおは出張に出かけた。帰ってくるのは来週の火曜日だ。その後、俺と同じように自宅待機状態の近所のあべおをうちに呼んで、鉄道の運行情報を調べたり、夕食を一緒に摂ったりした。あべおは帰宅し、じょにおとメールで連絡を取り、おやすみをメールで伝え合った。

今回のこの大惨事について、多くの人々の感じている被災地への祈りや不安と、自分の感じていることとはおそらく大意は変わらず、それをくどくど書く価値もないだろう。こういう時は、互助の精神と、冷静沈着な態度・正確な情報判断で行くに尽きる。