サラリーマンに唾を吐け


以下、いつのまにかサラリーマン生活を続けて何年にもなる自分への自戒を込めて。

俺はサラリーマン(注:女含む)なるものの存在が嫌いだ。特に通勤の時に特に強くそう思う。個人個人は卑小な存在のくせに、個の存在が隠されてアノニマスな存在になった途端に利己的で、傲岸で、凶暴になる。表立っては実に下らない電車内での場所確保のため、小競り合いにもならない肘付きだの、鞄での他人の押しのけだの、そんなレベルでしかないのだが、自分が何者かを明かさなくてよいならそういった無礼を働いても構わないという開き直りと、根性の浅ましさがそうした行動に見て取れる。そしてそういう馬鹿馬鹿しい、小さな世界の中でのエゴとエゴがぶつかると、時に言い合いやら小突き合いになるのだが、それもまたみっともない限りで、しかもみみっちい。通勤電車とは、そういったトリミングされた不機嫌とエゴの詰め合わせで、それに乗るたび、俺はこんなことを感じるために生きているんじゃないと思う。生きている時間をそんなことのために使いたくない。その苦痛を味わうたびに、それを自覚させるための神の配剤なのではないかとさえ思う。

そして自分の働いている大手町界隈で、黒塗りの社用車の後席に収まった醜い老人達をよく見る。例えばサラリーマンでそのうちエラく(笑)なったとして、あれをしたいか? 俺は絶対したくない。俺は絶対に、センチュリーと、レクサスLSと、メルセデスのSクラスには、乗りたくない。あんなのは棺桶に四輪がついているようなものだ。あのまま火葬場に持って行ってやればいいのに。

日本のサラリーマン人口は、人口の約4割強、労働人口の8割を占めるという。 自分が何か新しいことを始めたとして、生み出す物が果たしてこうした下らない矮小な根性の、自分のライフスタイルを疑わない刷り込まれた盲目の、勤勉を装いながらシステムの居心地悪さを動かしていこうとしない怠惰な、そんな人々に受け入れられるのだろうかとしばしば考えた。が、それは受け入れられるというよりは、単なる立身のための欲でしかない。別に多勢に「受け入れ」られなくても、自分の価値観を貫いて生きれば、そんな人々からはどう思われようと構わないとあらためて思い直すようになった。あいつらを敵に回したって、6割弱は残るじゃないか。サラリーマン輩、何するものぞ。そんなやつらは切り捨てろ、迎合するな。自分を取り戻せ。