自分の中に毒を持て


今、岡本太郎の『自分の中に毒を持て』という本を読んでいる。読了したらいずれレビューコーナーに書くが、日頃自分が憤っていること・苦しんでいることを明快に語っていて、自分の考えを押し通すことが自分の生をまっとうすることであることについて、大きな勇気づけがあり、久しぶりに本を読んで興奮を覚える。

『自分の中に毒を持て』 岡本太郎(著)
『自分の中に毒を持て』 岡本太郎(著)

生前の岡本太郎は、「何だか変わった人だなあ」という印象で、作品がそう際立って好きだった訳ではない。ただ、彼が写真に写る時に目を剥いて口角を下げた顔つきをするのは、モノマネされたりしてからかわれていたりしたけれども、他人を圧倒するような迫力がほしいのでそうやっているという趣旨のことを言っていたことを知った時、世間の人がひやかすほど滑稽なことではなく、この人は生きることに真剣なのだなと思っていた。

この本を読む今に至るまで、岡本太郎に共感を持つとは思ってもいなかったし、個人的には、岡本太郎よりは母親の岡本かの子の方が激烈な人というイメージだったが、最近、社会的な生きづらさを感じている時にふと手にしたこの本で、ほとばしるようなメッセージを受け取って、岡本太郎を遅まきながらすごい人だと思うに至った。そして、岡本太郎は「変わった人」「奔放な人」と世間からは受け止められていて、芸術という特殊分野で社会とは違うフィールドで力を発揮していたからこそ言えた自由な物言いの人と思われがちだが、彼は、現代社会の勝手さ(自由ではなく、利己的という意味で)・閉塞感・システムにはめ込まれることで失われる人間性・ありきたりであることを求められ逸脱を赦さない表層的画一的な社会の虚しさ、そういったものすべてをきちんと把握していた、理性のある社会的な存在だったのだ。そして、それらを把握したうえで抗い続けることで生命の炎を燃やすことをあきらめなかった情熱の人でもある。

この本を読んで、他にも思うこと・感じることは多々あるが、それはまたレビューの時に。ともかく、曖昧模糊としたストレスを最近すごく感じていたが、この本はそれが何で、自分はそれに対してどんなスタンスでいるべきなのかを教えてくれた。そして、自分にいつの間にか生じた甘えをガツンと知らしめ、かつ同時に生きづらさの理解者を得たような気持ちになった。

俺自身のことを考えるに、今、いつの間にかシステムに飼い馴らされていくことや得たものへの保身に危惧を感じつつも、そうした安穏とした方へ逃げていることをあらためなければならないと猛省する。そうした一方で、少し意を強くするのは、岡本が説くことは、日頃自分が感じていること、これまで感じてきて自分の主義とすることが、間違ってはいないということだ。すなわち、

  • 自分の美学を持って世間に転がる凡庸に怒りを感じることや、ストレート・トークをすること、
  • 長いものにまかれないこと、
  • 自分の本質を理解できる友人なんてそうそう見つかりはしないのだから広く浅く「人間関係を広げる」なんて浅ましいことはやめて人気者にもなろうとせずに付き合う人を見極めていくこと、
  • 主義主張が自分と異なる時には衝突を恐れないこと、
  • 妙なへりくだりでもって自分の位置を卑下して低いところに置き落ちた時の落差を小さくして痛みをあらかじめやわらげておこうなどという姑息なことをしないこと、


ということごとは、自分が10代の時からやってきたことだが、それは生をまっとうする姿勢として間違っていないということだ。昔から付き合っている友人に、今になって「20代の頃のJOEは触れたら手が切れそうなくらい尖っていたよねえ」と言われることがあるが、俺は今でも尖っていたい。いや、いると思う。「俺に触れると怪我するぜ」なんて言葉は、いまやギャグでしかないけれど、うかつに触れられないほどの、切っ先のきらめいた、硬く鋭い人間でいたいと思う。そんなことを目指す人間は今いないのなら、それこそ自分がオリジナルでいることの証ではないか。そのことは、他人をむやみやたらに傷付けるというこではないし、そんな自分にもやすらぎはあるが、汚いものにまみれて、心に脂肪がついた迂闊さに対しては、グサリとやってやればいいと思う。痛みを知れば、自分の扱いの過ちに気づき、血を見れば生きていることを知るだろうから。