コムデギャルソン


はあ。組織だの何だのいうことはつっっっかれるねえ。この世で一番首を突っ込みたくないことの一つだ……。(独り言)もとい、今日はコムデギャルソンについて。

この前買いに行ったコムデギャルソン(正確にはコムデギャルソン オム)のジャケットを昨日、丸の内のコムデギャルソンのショップに取りに行った。袖丈のつめを頼んでいたものだ。コムデギャルソンの服を買ったのは、20年ぶりくらいだ。

買ったのはジャケットで、ほとんど黒に近い濃紺のもの。店では黒のジャケットを後から出されたのだが、並べて比較しないとこれが紺だと気づかないほど。世間一般ではコムデギャルソンといえば、いまだに黒というイメージが強いと思うが、この黒に近い濃紺は、黒よりもコムデギャルソンらしい色だと思う。生地は洗いがかけられていて、脱脂されたような風合いでごわごわした手触りだが、その無骨な表情が、製品を人により近いものにしている感じがする。コムデギャルソンの生地へのこだわりについては、専門家やコムデギャルソンフリークに話を譲るとして、確かにコムデギャルソンにはコムデギャルソンしかできないものがあると感じることができる。

ファッションとしての服は、気分を与えることに意義がある。昔、『都市とモードのビデオノート』と題したヴィム・ヴェンダース監督の映画で、山本耀司の服作りのドキュメンタリーを見た時に、ヴィム・ヴェンダースが山本耀司の服を着た時の感想について、「普通新しい服を着るとその新しい皮膚に興奮するものだが、ヨウジヤマモトの服を着るとまったく違った感覚を覚える」といったような主旨のことを話していたのを覚えているが、コムデギャルソンの服を着ると、外に向かって発信する自分のイメージよりも、その服を着ている自分自身の内的な存在を意識するようになる。そして、コムデギャルソンの服を着ている人を見た人は、もし見る人が経済的に自立していて、かつインテリジェンスが備わっているなら、着ている人に対してその人は内実の充実を重んじる人だというイメージを持つだろう。

コムデギャルソンの服は、「最高級の生地と最高の縫製で着る人に至高の贅沢をもたらします」といった、マテリアリズムによる喜びをもたらさない。しかし、物質的なところだけに注目したとしても、(製品によるが)生地は考えぬかれて真面目に作られているし、縫製もデザイナーの意図を実現するためにこれまた真面目に成されている。物作りの誠意が、「服を通じて意図を感じ取って欲しい」というデザイナーの思いと合致しているので、コムデギャルソンの服は着る人に心地良さを与えるのだ。服というものの社会的意義を知る人が着たコムデギャルソンの服は、着る人をうっとりとさせたり、見せびらかしてやろうという気にさせたりはしない。しかし、気持ちをしゃんとさせ、自分をしっかり持って生きていこうとか、社会に立ち向かおうという気分を後押ししてくれたりはする。そういう意味では、コムデギャルソンの服は精神的防護服であり、その「自分をしっかり持つ」という大変労力の要ることの精神的な後押しをするのが、コムデギャルソンが唯一無二のブランドである意義なのだろう。その服作りの活動は、アートのような趣さえある。

しかし、コムデギャルソンの服はアートではない。アート「的」ではあるかもしれないが、その服作りはあくまで商売なのだ。商売としての会社の存続やら利益計上やら、服を作り続けることを実現するためには原資を生み出すことが必要で、そのためには、上記のような孤高の作業だけではなく、ウケる物づくりも冷静に実行されている。PLAYコムデギャルソンは、服にそこまでの精神性を求めない(考えつかない)人、物的アピールに響く人や「何だか知らないけどコムデギャルソンって『ブランド』でしょ、私ちょっと気になってたの」ととっつく人(つまりミーハーともいう)などの、広い裾野の人達に向けて展開され、商業的な成功を見ている。BLACKコムデギャルソン然り。コムデギャルソンSHIRTもライン展開されて久しいが、展開のそもそもの背景としては、服に高い保護関税がかかっていて輸入物がべらぼうな値段になるフランスで現地生産をしてリーズナブルな値段でコムデギャルソンの服をフランスに流通させることを目論んだのが最初だった。植物に花が咲くには根も葉も枝も必要なように、その辺は、商売として見て必要な全体展開をしてきたのだといえる。そんなビジネスとしての冷静な判断がなければ、経済的波乱を乗り越えられず、ヨウジヤマモトのように倒産していただろう。(幸いヨウジヤマモトは出資会社を見つけて今年また大規模なファッションショーを東京でやり、再建しつつあるが)

当然値段が下がれば品質も下がるし、アイコンの安易な使い方や、分かりやすいロゴ使いでもって名前で売るといったことは出てくるわけで、そのへんを潔しとするか商売的にキタナイ手を使ってやがると否定的な目で見るかは、人によって違う。PLAYコムデギャルソンについては、実に的確な表現のブログを発見したので、リンクを張っておく。だが、いずれにせよ、PLAYやBLACK以外にオムのジャケットのような良心も確かに(少なくともまだ)生きていて、そんな良心を俺は信じられるものとして、着る。逆にいうとコムデギャルソンの服はそこまで考えて着ないと、服に着られるばかりで、着る人が単なるファッション・ヴィクティムに成り下がる危険な服でもあるだろう。

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ところで俺はこの買ったジャケットを、会社の服にしている。それは、システムに飲み込まれがちなところ=立ち向かわなければならないところに赴くとき、自分をしっかり持っておく必要があるからだ。冒頭の独り言をつい言いたくなるような環境で、押し流されない自分のための服。それを今回20年ぶりに再発見して、ラッキーだと思う。<>