京都旅行 2泊3日 3日目


オーバーツーリズムの過剰・偏向報道

旅行客、特に外国人客が溢れかえり、その結果としてマナー違反や環境破壊が起こるオーバーツーリズムが近年取り上げられて久しい。コロナ前には京都市長が外国人客不要発言をするなど、未だ物議を醸す本件だが、今回京都の様子を見てきて、オーバーツーリズムに関しては、受け止める側・それを伝える側の問題の方が大きいように思った。即ち、現場を見る限り京都では外国人観光客は社会問題として深刻な事象となるほど迷惑を起こしていない。

オーバーツーリズムはコロナ前から取り沙汰されてはいた。コロナで京都の観光産業はかなりの痛手を負ったことだろう。今回のお茶屋でも、芸妓さんからの話を聞くに、コロナ中はすることもなくて、本来この季節には忙しくてすることも叶わなかった周辺散歩をして初めて桜の名所を見た、などという話も直に聞いた。それがアフターコロナとなり、待ち侘びていた客がカムバックすることになった。静かだった時の様子と比較して久しぶりに見る多くの人に戸惑いを感じる、ということも最近のオーバーツーリズムに含意されている気がする。

アフターコロナになって、ではコロナを生き延びた観光産業がどうやって息を吹き返したかというと、それは他ならぬ外国人観光客が多く来ることによってであるというのは、街中の様子を見れば明白。コロナの間に日本の不景気はますます坂を転がり落ちるように進み、円安も逆に振れる材料もなく安定的。人口の高齢化からしても、最早日本人が旅行で金を落とすソースにはもうなれない。新幹線に乗って移動する様子を見ても、特にグリーン車ではほとんどが外国人ツーリストだった。

確かに、一部迷惑な存在の観光客もいるだろう。しかしその一部をもって「外国人客は迷惑」という言い方が差別的なのでオーバーツーリズムという包括的な名称でもってあげつらうのは、俺は違うと思う。大半の外国人客は、きちんとルールを守り、秩序立って行動していた。電車に乗る時も自然に列を作って乗っていて、今回乗車時に横入りして「何だこの人?」と思ったケースは、帰りの山手線品川駅でそれをやらかして平然とした顔でいる日本人女性位のものだった。

そもそも歴史的な町に興味を持って来る観光客というのは、エキゾチズムをただ求めているのではなく、知的レベルも高く、文化に敬意を払う人達だ。しかし、京都は元から日本人にとってさて排他的な傾向が感じられる土地で、ルールに関しても暗黙化していることが多い。そんなものを外国人客が守らないからといって憤慨し、教えもしないことに腹を立てるのはおかしなことだ。

ゴミを捨てるにしても、まずゴミ箱を置かない側にも問題があるだろう。今まで色んな土地に旅行に行ったが、一番ゴミの捨て場に困るのは日本国内だ。

それから、言語に対するアレルギーもオーバーツーリズムという言葉に包含されてしまっていると思う。言葉の響きは異なって聞こえるもの。異質な響きをうるさいとするのではなく、そこは慣れていかねばならない。今回実際触れてどうだったかというと、英語、ドイツ語、フランス語、中国語、スペイン語と様々聞こえはしてきたが、観光名所で人目憚らず大声を張り上げている人などはほとんどおらず、皆普通のボリュームで話していた。むしろ少数派である日本人中高年女性グループの方が耳煩わしかった位だ。

要するに、オーバーツーリズムは根底に人種的・国籍的偏見が強くあると思う。日本人は排外主義の思想から来る先入観をいい加減捨てる必要がある。誰のお金のお陰で観光産業が成り立ち得るのかという実際問題の面から考えても、オーバーツーリズムをお題目に唱えては外国人を敵外視するネトウヨ的思い込みから脱却していかねば、進歩はない。

今回、お茶屋で女将が話の最中に「中国人はマナーも知らんし、あんなんはいやいや」などとこぼしてきた。ツアーメンバーの中で一部の人にだけ渡している名刺をもらい、一見さんではなくなったので、来る気になればここには個人として再訪できるようになったのだが、その言葉を聞いて、かえって嫌な気持ちになり、個人的に来るとか知人を紹介する気にはなれないなと思った。こうした排外主義は、外国人だけでなく日本人の客も失うことになるのだ。

オーバーツーリズムは、言葉が独り歩きし、人はそれに過剰反応しているものに思える。そして伝統的観光産業は「排他主義が自分の首を絞めるのだ」ということをもっと認識して態度を改めていかなければ、コロナ禍よりもっと過酷な事態になるだろう。