苦手なファンタジー系映画を観て思う


『怪物はささやく』というファンタジー映画を観た。主人公は末期の病気を患った母親と暮らしている男の子で、自室の窓から見えるイチイの木が動いて喋る怪物が毎夜訪れてくるという妄想を描いている。作中、主人公は祖母宅に引き取られようとする時に混乱して抵抗を見せたりする。これを観て自分について再認識したことを記しておく。映画そのものを客体化して評するものではないので、レビューではなく、ブログとして記す。

まず感じたのは、自分には子供に対する共感力が決定的に欠けているなということ。

それは今になって初めて意識されたことではなく、子供の頃からだった。昔、カルピス世界名作劇場で放映されていた子供が主人公の作品でもそう思っていた。例えば『母を訪ねて三千里』では、母親を追って遠く海を越えて旅をする主人公に対して「人に迷惑かけるんだから家で大人しく待ってろ」と思ったし、『アルプスの少女ハイジ』では寄宿舎のクローゼットにパンを貯め込んでいたのを見て「汚ねえな、腐るに決まってんだろ」と思ったし、と、他作でも似たような感想しか持たなかった。

これは毒親に育てられて愛情を渇望していた気持ちでの裏返しだと思うのだが、そんな大昔の事なのに、幼少期の影響はこんなところに出るものかと思う。そして、俺には子供がいなくてよかったなとも。

言っておくが、子供に対する根源的な愛情が欠落しているからといって、実在の子供達に接する時、冷淡に接しはしない。例えば、パートナーの親戚にも小さい子供が複数いるが、鬱陶しいと思ったことはないし、接触を避けるようなこもない。可愛らしい言動だの表情だのには、素直に可愛らしいと思う。
しかし、映画中にあったような逆境を消化できず破綻した行動を取る子供の様子を見ると、イライラがまず募る。「感情で共感力がないなら理性で補完すべし」と常に自分に科してはいるので俺の身の回りの現実世界で問題は起きないが、単なる想像上の客体に対してはイライラが先立つ。

映画の中で、主人公の子供は自身の内心を託した怪物に、実は母親の回復を願いつつもそれは無理だと知っていて、その状況を終わらせたかったという心情を吐露するのだが、それは俺が毒親に対して持っている心情に重なる部分があるなと思いながら観た。(なお、毒親とのいきさつについてはこちら

俺の亡父について言っておくと、父は弁護士事業が破綻した末に自殺したのだが、事業破綻の時に、俺は内心、この父親が老いて面倒を見るのは嫌だなと思っていたので、死の一報を知って、その義務を負うことはなくなった、よかったと思った。(父とは確執があったのも背景としてはある)

そして母のこと。母は存命なのだが、接触を拒否している。母が極度の自己愛性パーソナリティー障害で、接触を許すと精神的に侵蝕されてかなわないというのが第一の理由だが、もう一つの理由としては、せっかく経済的に自立して自分の生活を自分で組み立てられるようになったのに、母を経済的に面倒を見るとなると、今の経済生活レベルが落ちるから嫌だという気持ちがある。
逆に言うと、まともで愛着の持てるような母だったならば、多少自分の生活を犠牲にしてでも各方面の面倒を見たい、あるいは見てもよいと思えるだろうが、そんな母ではない、労力にしろ金にしろ拠出に値するような人物ではないと判断しているからだ、とも言える。

映画中の怪物は、主人公に寓話を語ることで、真実は複雑で人間には二面性があるものだと主人公に教えるのだが、要するに人に対する評価と決断には利己的側面がつきもので、結果について全面的に正当化はできない要素を孕んだこともあっていい、というのが映画の趣旨だ。

俺としては、主人公に対するイライラ(子役の顔の造作がまたイケ好かない顔だった)は、毒親に育てられるとこうなるのだなという結果を再認識させることになり、そして上述の趣旨は、自己防衛のため母親を棄てることに利己的要素が内在していてもそれはあり得ることと受け止める縁(よすが)となった。観始めは「ファンタジーっぽすぎるな、失敗だ」と思ったのだが、この辺りのことを自分の中でクリアにできて、意外な収穫だったと思う。