もうこの国はダメだと思う


年始の休みに続く週末に、年休を取った。本来なら俺は仕事の日だが、土日が休みの世間的には三連休だ。どこか出かけることにして(実は家にこもっていることの多い俺、『たまにはドライブ行っておいで』とパートナーから尻を叩かれたのだが)、地図を見てふと、銚子までドライブに行くことにした。そこで感じたことを以下に書く。

思うに、今まで俺は本物の「田舎」を知らなかった。幼少期、夏休みには母方の祖父宅があった木曽の奈良井宿に帰省していたのだが、あれは山深い所にあろうと、華々しい観光名所で、自然の中、楽しみに満ちており、そうしたものはここでいう「田舎」ではなかった。

銚子に行くには、外環道を使った。練馬の大泉ジャンクションから乗って、ぐるりと東京の外側を周り、東関道へ接続して、東端の潮来インターチェンジで下りたらあとは下道を30数km。その下道の光景で、「ああこれこそが『田舎』だ」と実感した。

何もない。チェーンのファストフード店やホームセンター、潰れたパチンコ屋を過ぎ、枯れ草が立ち並ぶ中をひたすら道が続く。そしてキャベツ畑が時折見える。ほとんど道に人の姿は見えないが、時折、歩行補助カートを押した婆さんや、その速度ではむしろ乗っているのが難しいんじゃないかと思われるノロノロ・ヨタヨタの自転車乗りの爺さんがいるだけ。

一目見て貧しい。疲弊し切った侘しさ極まるその光景を見て、ああ日本の没落はこれだな、と。没落の結果や象徴を見たのではない。没落の原因をそこに見た。自分の人生や世界はすべてそこで完結していて、他の世界への関心など持ちようもない世界。思想だの、大義だの、護憲だの、民主主義だの、そんなものは全て無力な隔絶世界。誰かが自分の金で得していようが、裏金を貯め込んでいようがいなかろうが、自分の人生大して変わりはしない。選挙の整理券は来るがそれとキャベツとどっちが価値ある物なのか。それでも入れてくれと言われれば投票に行く。でもそんなのは自民でも公明でも参政でも維新でも何でもいい。そしてそんなことは自分にとって何の価値もない。目に入るおらがキャベツのことが実存の全てで、あとは叢。

ネットで声高に法適用の平等だの、金権政治の一掃だの、検察仕事しろだの騒いだところで、キャベツ畑と叢にはそんな声は響かないのだ。こうした田舎、諦めの永久凍土、腐敗体制の培養地が、今の日本を形作っている。

劣化と衰退が広がるそこを車で抜けて、犬吠埼灯台へ辿り着いた。

犬吠埼灯台
犬吠埼灯台
灯台前の土産物屋前にある駐車スペースにて。
灯台前の土産物屋前にある駐車スペースにて。

岬だから当然その先は海で、陸地はここまで、景色の抜けは素晴らしいが、人もさほどおらず、寂しいところだった。新春の三連休だというのに。隣はきらめく大都会の東京だなどとは想像もできない。

灯台の周りは遊歩道になっていて一周できる。
灯台の周りは遊歩道になっていて一周できる。

土産物は茨城産の野菜の陳列に押されていて、キャベツはなく、銚子ビールだの醤油だのは肩身が狭そうだった。

帰りに立ち寄った銚子駅前の食堂で食べた魚の煮付けは旨かったが、通りはこれが駅前かと思うような寂しさで、時間が昭和で止まっているようだった。駅では、オタクを呼び込もうと目論んだアニメのパネルが空きテナントの脇スペースにあって、それ目当てで都会から呼び寄せられてきたのだろうオタファッションの女達が幾人か、その何もなさに戸惑った表情を見せながら、でも来たからには写真を撮っとかなくちゃと、申し訳ばかりのポーズで写真を撮っていたが、気分が盛り上がっていないのは看て取れた。そりゃあ銚子電鉄も廃線の危機だからといって売る物は濡れ煎餅くらいしかない訳だ、とその光景を見て納得した。こここそが、本物の「田舎」だ。日本の果ては北方四島でも、沖ノ鳥島でもない。銚子だ。

東京に帰ることにした。ドアを開けて乗り込み、ピスタチオカラーステッチの入ったオイスターグレーのウィンザーレザーシートに身を沈める。メリディアンのプレミアムオーディオシステムからはSamara Joyが流れる。ここではジャガーXEには存在価値はなかった。それが「世界一美しい車」の受賞車だろうと、ラグジュアリースポーツサルーンであろうと、クラスベストのハンドリングカーであろうと。N-Boxとスズキの軽トラこそが路上の覇者(車)であり、畏敬の念で見つめられるのはアルファードだ。

久しぶりの中距離ドライブで、気分転換にはなった。おそらくもう目にしないだろう景色を見れたことはよかった。だが、やはりこの国はもうダメだ、という一つの根源を見た気がして、それからも報道の続く裏金問題で不起訴の決定があっても、裏金の張本人が応援演説に出向いた市長が市長選で当選しようと、そりゃあそうなるわな、と、意外ではなく思う。そういう選択の連続がこの有り様であり、構造変化は起こらないのだから、これからもそれは続くのだ。破滅に向かって。