ハイ&ロー


朽ちる人 続・Gのこと

(前提としてのあらましはこちらの日記を参照)

中学の同級生のGが、今年度末くらいまでには東北のとある県に行くらしい。今週月曜、普段付き合いのある友人から、Gのメールが転送されてきた。月曜の朝、人が一番物憂い気分で社会に立ち向かおうという時間に送られてきたようだ。人の都合を考えず自分のことでいつも頭がいっぱいのGらしい行動だ。彼の行く先は当面東北なようだが、やがては山谷か釜ヶ崎である気がする。先日の物乞いの件ではないけれど、ああいった貧窮している人達は、すべての人が教育を受けていないあるいは不十分だったとか、最初から身寄りがなくて不遇だったとかではなく、以前はいっぱしの社会人であったのが何となく社会に不適応になって、ふと気づけば、あるいは気づかないうちにそこに行き着いていた、ということも、案外多いのではないか。

Gの様子を聞いていると、下層社会の形作られ方について認識を改めないといけないのではないかと思う。というのは、ドヤ街の人=社会的な境遇とか環境において不利な所の人、という、社会環境の上下構造が単純に地域や労働者の階層構造に現れているという今までの概念は古臭いものになっていて、ドヤ街に暮らす人にはそれに当てはまらない人も少なからずおり、下層社会は、家庭環境や社会的貧困層に属するかどうかに関わらない個人の資質に起因するドロップアウトも形成の原因になっていっているのではないかと思うのだ。うつとかコミュニケーション不全とか、何となくのやる気のないニートとかが、言葉は悪いが落ちこぼれとして従来の下層地域に吸収されていき、下層地域はこれから落ちこぼれ個人の複数体(出身地域や家庭の程度によらない人達の集まり)の比率が高まっていく気がする。特に現代になって顕著に注目されるところとなった落ちこぼれ個人(80年代~90年代初頭に若者と言われた人達)が、親が死に、周りに愛想をつかされ、就職や転職には時期を逸して、中年以降の世代となって、これから特にドヤ街構成メンバーとしての比率が増えていくのではないか。

Gについては、明るい要素が感じられない。多分Gが東北に行ったら、めっきり様子を伝え聞く機会も減るだろう。そして、そんな機会があったとすれば、それは今までよりも悪いことだろう。暗い未来の腐臭がメールから漂ってくるようで、朝から気分がどんよりしたが、これを直接送ってこられた友人は、もっとどんよりしたことだろう。社会的構造の不備とか境遇の不幸からくる弱者の救済というのは、チャリティーだの法整備の請願だの何だのという、社会的な総体に向けた責任の軽いアクションをすればよく、またそのやり甲斐もあるが、こういうのは相手がグニグニ・ズルズルとした不定形で、養分を与えて何とかなるものでもなく、その様を見やるしかないのだが、そうした気持ちの悪いことを見させ続けられると、それは自分のせいではないのに、後ろ暗い気分になる。この日記の前の日記で、ホームレスのことを書いた直後だけに、どうしようもないがどうしたものかという考えが、頭をぐるぐる回った。

◇ ◇ ◇

知的な刺激

さて、ジュクジュクした事柄とは内容を変えて。最近、人から知的刺激を受けたいと思っている。例えば次に読む本を探すにせよ、家の中を整備するにせよ、家に人を招いて食事をするにせよ、最近はどうも自力ばかりの頭打ち状態と感じている。(注:この場合の「自力」とは、自分の内々という意味で、パートナーじょにおの力のことも含む)ネットで検索しても自分がフォーカスした向きでしか情報は見つからないので、拡張性が必要と考えていて、人から学びたいと思う場合がたくさんあるのだ。

知的レベルという言葉を使うと非常にイヤラシイが、自分をさらなる上方へ持って行くためには、「この人はすごいな」と思える人と交流することが必要だと思っている。自分も今月で43歳になり、そろそろ自分が何者かを定めなければもう時間がないと少々焦っているのだが、その何者でないままこの歳になると、人間関係も閉じてきて、世界を持っている新しい人になかなか巡り逢うことがない。郊外でパートナーと静かに、ではないかもしれないが、少なくとも人間関係的には出入りもなく暮らしていると、快適であるが故になかなか出歩くこともしなければ人からわざわざ自分達を尋ねてそれを授けにきてくれるはずもない。もちろん、これはパートナーからの知的刺激がないということを意味するのではもちろんなく、他に、何かの分野で鋭く趣味を追求しているような、俺とパートナーという自分達の世界と異なったフィールドの知の風を入れたい、ということなのだ。

今までは何かしたい時に「こんな人が必要」と思っていると、不思議とその能力を持った人が現れるという幸運を味わってきたのだが、そんな不確定要素を信じつつも、積極的に人のいる所に出向いて行くことが必要かと感じている。しかしそういう人間関係が新しく形成されるのは面白いもので、たまたまどこかにふらりと遊びに行って知り合ったら、その人が面白いことをやっている人だとかセンスがいい人で、ちょうど自分はその人の長けている分野のことを探していたとか、偶然の形でいい人と知り合うというのがほとんどで、「人脈を拡げる」などというさもしい根性で探しに行っても、そういう貪欲には決して自分の望むような人間関係には行き当たらない。というか、こういう新しい人と知り合いたいなどということを言うと、必ず貧乏根性の人が接触してきて、「これを機会に…」なんてアプローチしてくるけど、その人からは学べることはまったくなくて、「あなたは私から学びたいといういうけど、あなたは私に何を与えてくれるの?」と言いたいようなことにしかならない。だから、その場を楽しむ気持ちで、かつ相手にも自分を提供する心づもりで望むのがよいだろうと思っている。にしても、「こいつはちょっとすごいな」と思える人、いないかねえ。そしてどこに行けばいいんだろう?<>