孤独な物乞い


昼休みに日本橋(東京のニホンバシの方、大阪のニッポンバシにあらず)を散歩していて、日本橋のたもとに坊さん(の姿をしている人)が立っているのを見た。この人、時たまいるのだけど、ちょっとアヤシイにおいがする。もし正統派のお坊さんだったらごめんなさい。でも、旅とか修行の途中での托鉢だったらお江戸日本橋に立っているのもさもありなんという感じなのだが、昼休みに散歩すると、そこにいることがままあるのだ。そして、どうも雰囲気が修行僧らしくなく、何かバックパッカー風のお気楽な感じで、ちょっとヘラヘラしているような表情を含め、修行的寡黙さ・真剣さがない。一度などは、立って文庫本を読んでいた。コスプレというか、そんな感じ。この人の実体って何なのだろうな、と思いながら、日本橋を渡って、コレド日本橋方面へ。

すると、その交差点に、本物の物乞い(語の成り立ちや現在この言葉が差別語として扱われることを認識しつつ、ここでは敢えてこの語を使う)がいて、正座していた。「ホームレス」という言葉よりは、「物乞い」という言葉がしっくりくる。何故なら、その人は、何も荷物を持たず、ただ硬い石の上に正座していたから。身じろぎもせず、寒い中を、通行人の邪魔にならないように、アスファルトを外れたビル角の、石張りの角に。もちろん敷物なんかもなく、垢染みた服を着て、黒ずんだ顔で、通行人に声をかけることもなく、ただただ無言で人の慈悲を待っているようにして座っていた。彼は「私にできることはこれだけで、私に今あるのはこの身一つなんです」という切迫した厳しさを湛えていて、実際厳しい状況であることに間違いはなく、そのシビアさは、日本橋のたもとにいた坊さん(疑)よりも、よほど修行僧のそれに近かった。

今時のホームレスは、ホームレスなりのライフスタイルみたいなものがあるように思われ、(それは大半が望んで得たものではないのが厳しいところなのだが)古紙やアルミ缶を拾い歩いていたり、公園にブルーシートのテントを作って住んでいたり、ちょっと程度がいいと簡易の宿に宿泊したりして、一つの社会的な形態を成している。もう少し要領のいい人はBig Issueを売っていたりして、職と住居のある一般の人と比べると、うんと社会との関係性は薄くなって、システムに上手く乗っかることができてはいないものの、某か経済生活の片鱗をホームレスの人達の様子には垣間見ることができる。会社の帰り、最寄り駅のターミナルには早い時間に、それこそBig Issueを売っている人が立っていて、その人からBig Issueを買ったことがあるのだが、その人は、ちょっと遅い時間に帰り着くともうそこにはいなくて、また翌日の比較的早い時間にはいて、もはやそれを生業として定時で出勤しては働いている「青空勤め人」の風情すらある。当然、その人の表情は、コレドの交差点の路傍にいた物乞いよりも遥かに人間的で、余裕すらあるといってよい。

ところが、今日の路傍の物乞いは、まさにそこにただ存在があって、どこから来たのか、そしていつ他のどこへ行くのかといった時間の関係をまったく感じさせることなく、じっと正座していた。今は、「乞食」とか「物乞い」と呼ぶのは差別だということでその代わりに「ホームレス」という言葉で言い換えられて、ホームレスと呼ばれる人達は、ある種の社会的な存在クラスターとして認識される。が、この路傍の物乞いは、まさに社会から隔絶されてこぼれ落ちてしまった「その人」独自としての孤独な有様で、そういえばホームレスという言葉が輸入される前の昔の物乞いは、自分の身の上の厳しさを認識体現していたこんな感じだったなあと思うと同時に、ホームレスなりのライフスタイルすら持たないその人の社会的な孤独は、この天候下の寒さよりも如何ばかり寒いものだろうか、と思った。