お金の話


大学で入学したての時とか、人間関係が形成できるかなーと思ってると、「マネープランとか投資って興味ある?」みたいなので、それ系のセミナーとかに誘いこむ人とか、いるじゃないですか。あれ、残念系の最たるものですね。「あー、仲良くなれるかなと思った途端にこれかー…」みたいなね。「お友達同士でお金儲けの手助けができればいいじゃないですか」みたいな感じで来るんだけど、大抵人間関係を破壊するし、そんなうまい金儲けの話はない。

友達と金儲けの話や金の貸し借りって、人間関係のバランスをたもつためには、距離をおいて分離しておいた方がいい。というか、分離しておかないと、金が人間関係を侵食してしまう。友人関係というのは、すごく口の悪い言い方でかつ冷たい言い方をすれば、エゴ(自分の欲を満たしたい欲求=人間関係から見れば相手が自分にとって有益かどうか)と他人愛(他人によかれと思ってする行動=人間としての利他的な善)との妥協点なのだけど、そのバランスはとても微妙で、ちょっとしたことで崩れてしまうこともある。金を持つということは、他人から何かをぶん取るための交換ポイント制度で優位を保つことあり、資本社会の中で自己実現をする潜在能力の数値化だったりするわけで、つまり要するにエゴの要素が極めて大きい。だから、友人の間で金の獲得について某かあると、エゴと他人愛との妥協点でバランスを取っていたはずが、エゴが重くなってバランスを失してしまう。

何かにつれて「金、金」言う奴って、金を無心された発言ではないとしても、「いやだなあ」と思うでしょう? それは要するに、そいつは「私はエゴに重きを置いてるんです」と宣言しているようなものだから。他人のことなんて考えてない奴な訳で、それを聞かされた人は、「この人は他人愛の観点が軽んじられたところに力点を置くんだな」という友情の成立が難しい奴だと悟ってしまって、嫌だなと思う訳。そう考えると、金がほしいとか金を儲けたいとばかり言うのみならず、「金がない金がない」ばかり言ってる奴も、自分がかわいいだけの奴だから、「あまり一緒にいたくないな」と思うことになる。「ばかり」を強調したのは、金儲けを悪だと思っているわけではないから。生きていくには金も必要だし、より文化的・知的な生活を送るにはある程度以上に金がかかる場合だってあるから、金を得ること自体はかまわない。それに、金銭的に不遇の時をすごす可能性は誰にだって生じ得るから、金がないと言うことも恥ずかしいことじゃない。でも、それを私的な人間関係を巻き込んでもなおやり抜こうとする、バランスを失した行動をしちゃあいかんわけです。

振り返れば、リーマンショックの時に証券会社が非難されたのは、金儲けの仕方がフェアじゃないということだった。彼らに対して投げつけられた非難の言葉は、greedだった。人間としての高潔を失ったことが、経済に混乱をきたしたことよりも非難されるに値する本質だったのじゃないかと思う。

非難を受ける元リーマン・ブラザーズCEO、Richard S. Fuld, Jr.
非難を受ける元リーマン・ブラザーズCEO、Richard S. Fuld, Jr.

豊かになることの秘訣は、金というポイント制度の舞台となる資本社会というゲームで他人を蹴落してポイントをかき集める貪欲を徹底することではない。他人を、そのゲームを離れている時の人間そのものとして尊重することが、豊かになる秘訣なのだ。一見背理的に聞こえるかもしれないが、人間関係はエゴと他人愛の妥協点だということに思い至ればよい。他人を大事にすれば、自分を大事にすることもバランス上必要になる。そうすると、エゴは利己的という意味を離れて本来の「自我」としての意義で大きくあらねばならず、結果、自分をうまく回していくこと=豊かになることもついてくる。よく、「金は天下の回りもの」とか、開運関係で「お金が入ってくるのを望むなら、他人に出すことを惜しまないこと。そうすれば運気の巡りがよくなり、金はまた入ってくる」と言われたりするのは、実はそういうことなのだ。そこで判断を誤り、「他人に金儲けの話を持って行ってやれば自分もウッシッシ」などと画策すると、それは自分にウェイトを置いてしまっていることに他ならず、バランスを欠いて、結果……言わずもがな。

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さて、なんでこんなことを長々書くに至ったかの背景を言うと。職場でカミングアウトついでに話をし、ちょっと面白い子だなと思っていた人物がいたのだが、その子からそういうマネープランセミナーみたいなのの誘いがあり、↑という考えを持つ俺としては、「ああ、お友達になれない系だな」と至極残念に思ったのだった。冒頭に「大抵人間関係を破壊するし」と書いたが、そういうのは、そもそも前段階として人間関係を形成することすら阻害するものなのだなあ。かえすがえす残念。<>