想像力を発揮するのに必要な条件


さっき、テレビ番組で東京藝大の学生や教授の声を集めた番組を放送していた。それを近所の友人あべおと見ながらあれこれしゃべっていたのだが、多くの学生に見られた傾向としては、何かしら満たされない思いなどがあって、それが創造力を発揮する契機になっているというもの。

「やっぱりさあ、そういうとこからじゃないと想像力は発揮されないんじゃないの? 満たされているとダメ、みたいな」

とあべおは言う。うーん。そういうところはあるかもしれない。ひるがえって自分の生活を見てみると、今は満たされている。快適な家もあり、職業も安定していて、職場も(ちょっと隣席に変な奴はいるにせよ)転職を真剣に考えようかと思うようなストレスはなく、仕事内容はハードにしても、環境はまずまず。そして、パートナーじょにおには、毎日あふれんばかりの愛情を注いでもらっていて、いい食事もしていて、と、不自由がほとんどない。(というか、ちょっと気ままに食事をしたり、インテリア用品を買ったりしていて、贅沢をしていると思う)

こういう生活をしていると、やはりその状況を打破して新しい世界を築くのだという、想像力へのハングリー精神は、発揮されにくいものなのだろう。今は、今まで何かと波乱のあったところを潜り抜けた自分へのボーナスシーズンだという風に解していると、前に日記で書いたが、これを超えて、何かをしたい・自分が何者として生きていくかを定めたい、という一歩を踏み出そうというなら、ある程度自分を追い込む状況が必要なのかもしれない。が、一度得てしまったものを手放すのは難しい。

過去に、「そういえばよくそんなことをやりおおせたなあ」ということが(他人から見ればちっぽけなことではあったかもしれないが)あった。その時には、やはりどこか満たされない思いがあって、何か自分が表現しなければ、そこから抜け出すことが難しいと感じていた、脱出という生の渇望が、それらをやり遂げさせたのだと思う。短期間で小説を書いて入選にこぎつけ、職を得たこともあれば、エポックメイキングなイベントでパフォームしてみたり、一人何役も(しかも専門的な能力がなければできないようなことを)こなして、チャリティーイベントを成功させたり。ああいう時には、どこか、そういう「そこを抜け出して次へ行かねばならない」という使命感があったり、自分の生命力を削ってでもそこへ賭けるというような、いわば機織り鶴的な行動があったものだ。

かといって、世の中の芸術家すべてが苦境にあったり、満たされなかったりしたわけではなく、たとえばモネは生きているうちに大変成功して、大変美しく広大な庭を作り上げて、そこをベースに自分の芸術を昇華させたし、ピカソの人生も幸福で、しかも長生きをした。そういう風に、幸福を自分の生きざまの糧として、増幅する人もいる。

ここはひとつ、発想の転換が必要なのだろう。すなわち、自分の持っているものの何かを犠牲にして、枯渇した何かを補って余りある価値のあるものを発見するか、幸福に満足せず、さらなる高みを、自分自身を高めることによって何かを生み出し、目指すか。

明日もまた、日常がやってくる。会社では、重要な動きを取らねばならないことがある。しかし、それは本当に自分のするべきことなのか、ひいては自分がいるべき場所なのかを、冷静な目で見、そして、これからの進むべきところを、自分の中で問うてみなければ、時はこぼれていくばかりになってしまうだろう。自分に変化をもたらすこと、これはなかなか、難しい。困難や苦痛からは、それを脱したいという人間の生のエネルギーが、力を発揮しやすいものだが、この平穏な日々の中で、なんとなく感じている自分がこれでいいのかという思いを、ものを生み出す力に転じるのは、本当に大変なことだ。

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