人間的環境としての職場、あるいは品位について


大抵の人は日常、自分で接することを望んだのではない他人と、不可避的に接触している。すると、中には性根の悪い、本当にうんざりするような奴もいるもの だ。

そんな奴をどうこうしようなどとは思わない。そんな奴は、物理的に近くにいようと、話をする必要があろうと、自分の人生にはかすりも しないのだ。そう思うことにしている。

そう思いはしても、やっぱりうんざりするし、「それ」(人ですらない)と接する必要があると、嫌だ なと思う。そして案の定、嫌な感じなのだが、そうすることで得をすると「それ」が思い込んでいることと、抱き合わせで「それ」にくっついてゆく下司という レッテルとを比較するに、前者が後者を上回ることは決してないだろう。可哀想な抱き合わせ商法に引っかかっているものだが、誰も「それ」を救えない。

そ んな「それ」を目の当たりにして、自分が侵食されるような気分がするが、自分のは人生はやはり「それ」とはかすりもしないのだ。

今日は始 発で仕事に出て、一つ大きな形がついた。仕事内容としてはいいし、自分の本来業務として接する人には幸いに下品な人はいないのだが、しかし、環境にもかか わらず精神的な姿勢を美しく保つというのは、なかなかに困難で、やはり人間的な環境も意識的に選びとっていかねばならないのかもしれない。最近、自分の身 を置く環境としての仕事場ということを、よく考える。