八木秋子という生


先週、昭和の時代のことをインターネットで気ままに巡りながら見ていて、唐突に思い出した人物がいる。八木秋子。大戦以前に活躍した長野県出身のアナーキストであり、女性解放運動家だが、その名はあまり有名ではない。ただ、その時代の社会運動や女性史に詳しい人には、感銘をもって受け入れられる名のようだ。アナキズムについては、派手派手しいその後の全共闘時代の陰に隠れ、思想的にも過去のものとしてすっかり追いやられたもので、俺自身は賛否以前に、知識も興味もない。八木秋子をふと思い出したのは、個人的な理由からだった。母方の祖父の家に、夏の間何年か、彼女が滞在していたことを思い出したのだ。

祖父は満州鉄道の嘱託医を経て、長野の木曽で開業医をしていた。自宅の1階正面にあった診察室に隣り合う薬局(調剤室)の階上にあたる3畳間に、彼女はひっそりといた。本名を「あき」というので、夏休みに祖父の家に遊びに行っていた俺をはじめとする祖父の孫たちは、「あきおばあちゃん」と呼んでいた。食事の時間の他はほとんど階下に下りてくることもなく、彼女はその部屋にひっそりといたのだが、時々俺は「あきおばあちゃん」の部屋に行ったものだ。大抵は、食事やお茶の用意が出来たことを告げに行ったのだと思う。

部屋を訪れると、古びた文机に向かっていたり、その横に敷いた布団に横になっていたりした彼女は、親戚の話では「本を書く人」だということだったが、幼い俺にとっては、彼女がどんな思想を持ってどんな本を書いていたのかはどうでもいいことだった。単に「田舎に遊びに行った時にいる、他のおばあちゃん」という感じで、彼女の部屋に足を運んでいたのだが、何となく普通のおばあちゃんではないな、とは感じていた。彼女は言葉少なで、子供達の相手はするものの、本質的には子供に興味がなかったのだと思う。いく夏か、彼女をその3畳間で見たが、ふといなくなってしまった。亡くなったのだとは思うが、葬式の話も子供の記憶には留まらなかった。

彼女は、腰の曲がったしわしわの小さなおばあちゃんで、しかし分厚いレンズの底にあった小さな目には、何かがあった感じがしていた。しかし、接していた当時は「あきおばあちゃん」は「あきおばあちゃん」でしかなかった。長野の山奥は、木曽節に「夏でも寒いヨイヨイヨイ」と歌われるように、夏でも夜は厚掛けの布団を掛けて寝るような気候で、盛夏に赤とんぼの飛ぶ処だった。陽のあたる3畳間にちょこんと座っていた彼女の印象が、夏であったのに何故秋めいた印象として脳裏に記憶されたのかは、その涼しい気候のせいだったのか、谷あいに小さくへばりついた集落に差す太陽のすぐに翳る頼りなさのせいだったのか、理由は判然としない。まさか名前が「あき」だったから、というわけでもないだろうが。

そもそも、あの3畳間に何故いたのかも、よく分からない。祖父は「判官びいき」や「アンチ」を自負している人だったので、その左派繋がりで、彼女は長野県出身だったから、そのよしみもあって彼女が夏に過ごす避暑地を提供したのかもしれないし、ひょっとしたらそもそもの繋がりは、満鉄の嘱託医時代で、やはり満鉄に勤務経験がある彼女と知り合っていたのかもしれない。遠縁だと説明されたような気もするが、その真偽も、そんな言葉があったのかどうかも、俺の記憶の中では定かではない。

そんな訳で、よくわからなかったままに記憶の底に沈みかけていた彼女の存在だが、今になってインターネットで、苛烈な人生を送った人なのだと知り、不意に記憶が浮かび上がってきた 。

八木秋子(やぎあきこ)プロフィール:
株式会社編集工学研究所運営の”Edit 64”より引用)

1895年(明治28年)長野県西筑摩郡福島町(現木曽郡木曽福島町)に生まれる。本名は八木あき。結婚し、長男健一郎を出産するものの自分の描いていた結婚生活と大きな隔たりがあることに気づく。たまたま近所に住んでいた小川未明を知り、大きな影響を受ける。また、有島武郎を訪ねて相談したこともきっかけとなり、子どもを置いたまま独り<家>出する。

正式な離婚後、小川未明の世話で童話雑誌社「子供社」に勤務。そこで有島武郎から童話の原稿を貰ったという思い出は、彼への追慕とも重なり終生忘れがたいものとなった。その後、父親の看病のため、一時ふるさとに帰るが両親ともなくなったため、上京。東京日々新聞への投書原稿がきっかけで神近市子以来の女性記者として学芸部へ所属、新聞記者活動のかたわら労働講座や労働組合活動に接近する。
1928年(昭3)長谷川時雨主宰の『女人芸術』に入社。同誌に小説、評論を発表。7月号の「藤森成吉氏への公開状」はアナ・ボル論争の発端となる。また、林芙美子との九州講演旅行記などもある。
そのうちアナーキズムの雑誌『黒色戦線』や『婦人戦線』などでも活躍する。特にネストル・マフノに題材をとった「ウクライナ・コミューン」は埴谷雄高も当時読んだといい、著作集Ⅱ『夢の落葉を』の帯文を埴谷が書く縁ともなった。
1931年(昭6)、貧窮きわまる農村の解放のための実践活動の道を歩み始める。「農村青年社」を拠点に、パンフ・新聞・雑誌の発行や地方への啓蒙講演活動に邁進する。しかし、活動資金調達のための窃盗事件により逮捕。その4年後、農民への啓蒙的色彩が強かった農村運動が武装蜂起の「農村青年社事件」と して検察によって仕立て上げられ、治安維持法違反に問われる。
出獄後、満州へ。満鉄新京支社庶務課留守宅相談所に嘱託として勤務し、その地で、マルキシズムの活動家であった古い友人永島暢子らと交遊する。1945年ソ連の参戦に遭遇して不本意な引き揚げとなり、ソ連軍の暴行に絶望して自殺した永島とは永遠の別れとなった。子捨てと共にこの友人を捨てたということは、八木秋子にとって大きな傷となって残った。敗戦後は、信州で親戚の工場の寮母をするが、その時期、別れた子ども、健一郎の死に直面する。その後上京し、母子寮の寮母を勤める。1962年、母子寮の整理により退職。いったん木曽に帰るが、1967年4月より東京清瀬市のアパートで4畳半の独り住まい生活を10年近く送る。
1975年9月、相京と初めて出会う。
1976年12月、老人ホーム都立養育院へ入寮。意に反した老人ホーム入りに失望し、およそ一ヶ月後に脱走して相京宅に来る。結局ホームに戻ることにな るが、そのことがきっかけとなって77年7月八木秋子通信「あるはなく」第1号発行。78年4月八木秋子著作集Ⅰ『近代の<負>を背負う女』、12月著作集Ⅱ『夢の落葉を』、81年5月著作集Ⅲ『異境への往還から』刊行。通信は全15号、休刊号、馬頭星雲号(追悼号)を発行した。いずれも相京が編集発行人 である。1983年4月30日逝去。

彼女の誕生日が、先週の日曜日だったのは、偶然とはいえ絶妙なタイミングだった。あのぽつねんと佇んでいた彼女の小さな姿が、秋の陽とともに今、思い出される。今度、彼女の著作を読んでみるつもりだ。今は古書でしか手に入らない著作集『夢の落葉を』は、彼女の文机に置かれてあったのが、うっすらと記憶にある。その本の表紙を、木曽の弱い日差しが、斜めに明るく照らしていた。