祖母の思い出


数日前に、祖父の思い出を記した。その際に、いつも連れ添い、祖父の仕事を支えてきた祖母のことを、今頃はどうしてるかと思いながら書いた。その祖母が、今年2月に死去していたことを、さっき妹からの連絡で知った。それを知らせる母からの喪中葉書が同封された手紙が届いたのだと言う。母がちょうどそれを書いたのが、上述のブログを書いた日だ。

母との関係で、祖母とは長年会わなかった。祖母に連絡を取ることで、所謂毒親で極度の自己愛性人格障害である母(こちらの生活を心身ともにおびやかすので、連絡を絶ってこちらの連絡先も知らせていない)に、俺の消息を知られては困るからだ。
しかし祖母のことは慕っていたし、元気でいるだろうかと案じていた。結局、会えずじまいだった。

祖父はもう20年弱も前に他界している。祖母は、祖父の死去後、しばらくしてから広すぎる家を引き払い、有料老人ホームに移ったと聞いていた。

祖母は、祖父の後妻だった。祖父が終戦間近、ソ連侵攻で逼迫した満州で先妻を亡くし、母を含む3人の子を連れて引き揚げてきた長野で祖母と結婚し、祖母は祖父の仕事を助けながら連れ子である3人をそれぞれ大学にまでやり、育て上げた。母らはひねくれていて、自分達は限定的な愛情しか与えられなかったなどと不平を言っていたが、俺の知る限りでは充分以上の情をかけられていた。そして孫である自分にとっては、祖母こそが唯一の祖母だった。

田舎の開業医である祖父を助けて、祖母はよく働いた。往診するといえば、祖父を乗せて車を運転するのは祖母だったし、夏に帰省しても医院は開業していて、祖父の補助をしつつ、帰省した子や孫達のために料理を作りと、くるくるよく動いた。

祖母が、祖父や母など他の人がいない時に、子供の俺に話したことをよく覚えている。「私はね、山中の女工だったこんな私をもらってくれて、こうした生活をさせてくれているおじいちゃんに感謝している。あなた達もいてくれてね」と。祖母の生い立ちはよく知らないが、戦後大変だった時に、引揚者で連れ子の母親役を必要としていた祖父と結婚したことや、子育て、後妻であることの引け目など、想像以上の苦労があったことだろう。
祖母は殊の外俺を、他の孫達からするとえこひいきじゃないかと思われるくらい、よくかわいがってくれた。そして、時々母のことを、「◯◯ちゃん(母の名)も、あんなきつい性格じゃなかったらね」と言っていたことも、覚えている。

どんな思いで最期に息を引き取ったのか、知りたくとも知れない。穏やかな最期であったのだとは思うが、心中も穏やかであったのかどうか。96だったという。よく生きた。親のことは尊敬できないが、祖父と祖母のことは、尊敬していた。祖母の死を知ったことで、自分史の何かが、ターニングポイントを越えたように思う。祖母よ、安らかに。

おばあちゃん。あなたは、決して日陰の身でも、誰かの代わりでも、立役者でもなかった。おばあちゃんは、おばあちゃん自身だった。そして、俺にとっては生まれた時からおばあちゃんだったけれど、あなたが若かった頃、その人生をその頃から必死に生きて、「おばあちゃん」としての存在ではなかった頃にも、意味があることを、俺はずっと覚えておくよ。ありがとう。