因果応報の嘘


久しぶりにぶった切るか。

「真摯に何かに取り組んできた人のみに素敵な出逢いは与えられる」などというツイートを見た(自分がフォローしている以外の人の)。とてもじゃないがこういう考え方には賛同できない。自分の努力が実ったことと偶然とは別物。自分の努力と人の巡り合わせが両方うまく実って嬉しいなら、「真摯に何かに取り組むと、素敵な出逢いもついてくるもんなんだな」程度で充分ではないか。何故「人に『のみ』」なのか。

「諦めなければ夢は必ず叶う」とか、夢見がちなおバカさんの絵空事にはもうお腹いっぱいという人も多かろうが、上のツイートに見るような「真剣努力がないと何も与えられない」と取れる言い方には、非常に嫌悪を覚える。「俺は努力したから出会いが得られたが、出会いに恵まれないヤツは努力が足りないせい」と言わんばかり。関連付けに合理性がまったくないし、不運な人をバカにしている。
その意図はなかったというなら、考えが浅い。偶然の果実を自分の成果のように振りかざすその不遜さ。幸運を自分の所業ゆえだからこそと主張するのは思い上がりであり、傲慢であり、自己の過剰評価である。真摯さが足りないのではないのか、と皮肉で切り替えしてやりたくなる。

「因果応報の嘘」と題したが、因果応報とは、バチ当たりとは別で、元来、良いことをしたら良いことが、悪い行いには罰が巡ってくるという、いい意味悪い意味両方がある言葉だ。因縁とか輪廻とか因果応報とか、そうした循環概念が仏教には多いが、生きていれば幸運も不幸もある。因果応報というのは、そうした巡り合わせにかけて、悪行を抑制し、善行を奨励する方が社会がうまく回るので、宗教上定型化したものではないかと、俺は思っている。そしてそれを永続化させるために、過去の行いが契機となるという考えのみならず、前世の行いまで持ち出されるのだろう。
そして、その悪行抑止力的教えは強力だったので、今ではほとんどの場合、悪いことをするとバチがあたるという意味で因果応報の語が用いられるのだろう。

自己肯定感の薄い人には、因果応報の言葉は、とてもマイナスに作用する。何か悪いことに行き当たると、それは過去の自分のせいではないか、と、直接合理的な因果関係のないところにまで遡って自分を責めることになる。そして、「ああやっぱり自分の生き方だと不幸なことが起こって当たり前なんだ」という萎縮に陥る。

そうではない。誰の人生にも幸運・不運がある。不運が自分のせいだと思い込むことはない。

人は努力では如何ともし難いことがある。それは自分の成果でもなければ自分の落ち度でもない。そういうことを思い至らないで、何が真摯か。「真摯に何かに取り組んできた人のみに素敵な出逢いは与えられる」だと? 何気ない(=考えの至らない)一言に、怒りさえ覚えた。