秋が苦手 48の誕生日を迎えて


今月は誕生月なのだが、生まれ月というのに昔から秋が苦手だ。もっというなら、今日が誕生日なのだが、毎年この頃の物寂しい感じ、太陽が力を失っていく様、夕暮れの侘びしさが、いつも耐え難い。殊にここ数年、何をこうも自分は頼りない人物で、何事をも成し得ていないのかということを恥じるのと相まって、秋の寂寥感に自分が責められているような気さえする。

自分のヒストリーを振り返る時、人生これでいいのだと思えたことがほとんどない。いつも人生の轍を踏み間違えてきた気がする。パートナーのじょにおと出会い、一緒に人生を歩んでいることは、唯一といっていいほどの例外だと思う。その選択はいいのだが、どうも人生ポイントポイントで間違った選択をしてきて、このフラフラ・ふわふわした自分に至ってしまった。

あの時ああしていれば、違う方を選択していれば、と思うことは、誰しも人生の中にはいくつかあるだろう。それに加えて、俺は、どの選択肢も正しくないがどれかを選ばざるを得ないという状態もあった。そこでよりマシな選択をしたはずが、それもやはり間違いだったのかもしれない。

ふと、こうした茫漠とした人生を歩んでいて、思い出す人物がいる。母方の叔父Tだ。医者だった祖父の後を継がせるべく、医大に行き、博士号を取りながらもT伯父は結局医者にならなかった。3人兄弟(伯父、母、T叔父)の末っ子で、わがまま放題に育ったと聞かされてきた。医大生時代は、昭和30年代にスポーツカーを乗り回し、数々豪遊したようだ。

何故医者にならなかったのか、その訳は知らない。結婚し、2児をもうけたが、ほんの少し塾講師をしてみたり、あるいは犬のブリーダーの真似事をしたみたりしながら、基本は碁会所に通う日々で、生活は妻が保険外交員をして成り立たせていた。

母方のうちでは毎夏お盆時に、祖父の家に帰省する習慣があって、そこでT叔父に会うと、T叔父自身は、今風に言うとちょっと話を「盛る」癖があって、大きな口を叩くのだが、基本は人がよく、しかし、姉である俺の母(気が強いことこの上なかった)には、「妻に食わせてもらっている」というところからか、姉弟という力関係からか、何となく肩身が狭いようだった。

祖父の家では、T叔父がいない時に、大人の会話が、当時小学生だった俺の耳にも入ってきたのだが、それは、祖母が「仕事もしないで毎日碁会所に行ってねえ」とか、伯父が「医学博士まで取ったのに」とか、俺の母が「◯◯さん(T叔父の妻)に食わせてもらってるなんてねえ」といった言葉の数々。小学生だった俺は特にT叔父に悪感情を抱くでもなかった。また、T叔父自身も、そこで嫌味を言われたところで事態が変わるわけでもなしと思っていたのか、飄々としていた。

その後もT叔父は、基本的に大きく変わることがなかったのだと思う。最後にT叔父と会ったのは、俺の父の葬儀の時だった。今から10数年前のことだ。T叔父はそうした場になると張り切るたちの人で、それに上手く乗っかって俺は父の死後の後片付けを依頼し(T叔父にしてみれば父の遺品で目ぼしい物を『誰も使う人がいないから』という名目で持っていける旨味があった)、それ以降連絡を取るでもなく、今に至っている。

T叔父は今はもう70を超えたはずだ。身上に何が起こるか分からない世の中だから、今生きていればの話だが。

あの頃、親戚が集まる度に責められるような肩身の狭い境遇にありながら飄々をそれをかわしていたT叔父は、今の自分の年齢くらいではなかったか。母方の親戚ゆえ、恐らくもう会うこともないだろう叔父を、今更ながらに自分の今と重ねて考えてみる。これもまた、無駄なこととはいえ。

昨日はそんな自分ながらもじょにおに温かくもてなしてもらって、誕生祝いの食事に行き、昼も夜もシャンパーニュという贅沢三昧をさせてもらった。そんな厚遇からすると、自分の人生は人から見れば今は幸福だろうし、実際、良きパートナーに恵まれたという幸運については素直にうなずけるのだが、自分自身の持って行き方をもっとどうにかならないものか、と、不惑の年代も後半僅かになってきて、いまだ彷徨えるがごとし。
ともかく、そんな自分を温かく見守ってくれている周囲の方々にも感謝。