グローバルスタンダードというウソ


とある友人の勤める会社では最近グローバル化が叫ばれ、英語の不得手な(本当はしゃべれるのに謙遜しているのかもしれないが、本人曰く苦手らしい)友人も「英語はしゃべれた方がいい」なんて言われているらしい。もちろん英語がしゃべれないよりはしゃべれた方がいいに決まっている。俺の今いる会社でもグローバル活動はあって、事業は既に世界展開されているし、「誰々さんいないね」「先週からインド行ってるよ」とか、「ドイツの○○さんからの問い合わせに対応してくれる?」なんてことはもちろん日常。

世間一般でいうと、ビジネスモデルのグローバリゼーションなどという言葉は手垢がつきまくった感じがあって、言うも恥ずかしいくらいなのだが、グローバリゼーションを考える時、一番まやかしなのが、「グローバルスタンダード」というスローガンだ。何かが世界的に通用するようになって筆頭になっている場合に、それを称してグローバルスタンダードというのだが、普及する対象や地域ごとへの適合化作用があってはじめて通用が成功するのであって、「これが標準なんだからお前ら四の五の言わずにこれ使え」という押し付けでは、決して通用しない。つまり、グローバルスタンダードというが、どこでもそのままでOKという共通モデルは存在しないのである。当たり前だ。かつてunityというスローガンが流行った時期があったが、人や社会は1つに束ねることなどできないのであって、今は圧倒的にそれぞれの差異を認めながら同居する考え方に改められており、diversityに価値が置かれるようになっている。でもそれとて手放しの概念としては疑わしいところもあって、それについては機会をあらためて書きたい。

さて話は戻って、グローバルスタンダードである。「グローバルで通用する人間が必要」などとよく言われるが、どこでもOKなツライチ万能型を作れ、という意味に誤解されている場合がままある。しかしもちろん、そんなものではない。ましてや、英語=グローバル化の実践などと思っているのは噴飯物であって、社内公用語を英語化するとかいうのは、ちょっと聞きたいな/言っておきたいなと思った時に「あー、めんどくさいからいいや」という萎縮のデメリットを増やすばかりだろう。因みにうちの会社では、カナダに留学していた中国系のポーリーナさん(仮名)がドイツ人と日本人のハーフのヤンニさん(仮名)と台湾人の翻訳者のケニーさん(仮名)にメールで連絡を取る時、同報者が日本人であれば日本語で「お世話になっております。○○について、××いたしました。よろしくお願いいたします。」とやっている。(日本語が分からない外国語圏の人が1人でも入っていれば、英語になるが)

それに、外国に行ったり、外国に暮らしている人から異口同音に聞かれたりするのは、自分のオリジンを大事にしないと、絶対に外国では通用しないということ。のっぺらぼうは誰からも好かれないのだ。ビジネスではどうしたって言葉を使わねばならず、伝える術として英語というのはひとつの強力なツールだが、伝えたい内容=自分のオリジナルのことがなければどうしようもない。本質はどこにあるのかお留守になったグローバルスタンダードという言葉は、とても虚しく思えてならない。<>