戸隠へ その二


その一から続く)上信越を長野インターで下りてからは、地方都市ならではの、国道の支配に身を任せて、おとなしく目的地を目指す。少し横に逸れればあの善光寺かと標識で認知しつつ、市街を抜けて、山へ。

戸隠は、かつては戸隠村だった。今は長野市に編入されている。市の中心街から車で二十キロ弱の道を三十分強走れば着く。くねくね曲がり続ける山道は、木曾で慣れている。窓の外を流れる景色は、紅葉の盛りにはまだ早い。緑の中に、黄や赤が点在している。

平日で車が少ないせいか、先行の車はけっこう飛ばす。普通、山道では遅い車でスタックするものだが、今回そんなストレスとは無縁だった。窓を開ける。新鮮な緑の匂いをはらんだ空気が入ってくる。「ああ」と声が出た。無目的なドライブを目指していても、こうした魅力には勝てない。

車は快適だ。ACCもレーンキープアシストもついていない。コネクテッドカーでもない。ウィンドウ周りからの遮音はいいが、下周りからのロードノイズ遮断はそう徹底されていない。
しかし、シートはきっちり体を包んでくれる。一度収まってしまえば、居心地が悪いとかどこかが痛いとかで、もぞもぞしたり、座り直したりしなくていい。セミATには時に痛痒を感じることがあるが、エンジンはよく回る。ステアリングは余計な修正をしなくてもまっすぐ走る。
本質が押さえられていれば最新でなくてもいいんだ、と、少し取り残された気持ちを自分で正当化していないかといえば、嘘になる。それでも、この車は愛せる。

山道を気持ちよく走り、何はともあれ腹ごしらえを、と、下調べしておいた蕎麦屋『そばの実』に到着した。正午前だが、既に駐車場は満杯で、二台待ち。しかし数分で空きが出て、停めることができた。
戸隠『そばの実』

戸隠『そばの実』

名前をリストに書いて待つ。十月の長野とは思えない暖かさ。快適で、名前が呼ばれるまでの三十分の待ち時間はさほど苦にならなかった。その間、店内待合に置かれた郷土誌を見たり、店の軒先に提げられた杉玉を、ああいかにも信州だなと思いつつ眺めたり。

とろろと、普通の蕎麦つゆと、くるみ味噌の三味で食べる蕎麦三昧に天ぷらを注文する。待つ間に出された戸隠大根の味噌漬けと延命茶を飲みながら、食べ終えたらここから二キロの鏡池へ行こうと、次の算段をつける。悪い癖だ。

戸隠『そばの実』の蕎麦三昧

切り口の角が美しく立った蕎麦を食べると、自然と居住まいも正される。甘皮を取らずにひいた蕎麦粉から打たれた蕎麦には、その灰色の中にほんのり新蕎麦の薄緑が差している。こういう精妙な色は蕎麦色と呼びたい。一口目は、つゆを使わず、天ぷら用に添えられた塩をほんの少しつけて食べてみた。蕎麦の香りが心地よい。

蕎麦屋は基本的に長居すべき所ではないと思っている。さっと食って、さっと出る。待っている人がいるからというよりは、俺はそういうスタイルなのだ。蕎麦屋で酒も肴も頼んでゆっくりするのも一つの楽しみ方だが、飲まずに蕎麦だけというなら、それが自分の気性に合う。

蕎麦屋を後にして、そこから二キロの鏡池へ。細い道で、自主ルール的一方通行のはずだが、法的に規制されたものではなく、逆に来る車も数台。

鏡池は、観光のためにあるような場所だ。山中に、突然開けた場所が現れ、池の向こうに戸隠連峰の峻厳な岩肌と、紅葉の始まった木々の色とりどりのモザイクが望める。当然、皆カメラにその光景を収める。俺もそんな一人になる。

 

しばし、池の光景を眺め、少しだけ周りを歩く。少しだけ、というのは、池の左手は山道になっていて、奥は写真のとおり山林なので、全周どころか、五分の一ほど歩ければせいぜい、という感じなのだ。

写真を撮ろうと頑張っている大学生サークルとおぼしき人達は、雲が広がったり、風が吹いて池の鏡面にさざなみが立つと残念そうな声をあげ、しかし三脚を立てたまま、自然が自分に都合のよい姿になるのを待っている。少し離れたほとりでは、水彩画を描いている人がいて、絵には、目にも綾な紅葉が黄金に緋色にと踊っているが、それはこれから半月以上かけて現れるであろう理想の光景で、目の前の景色ではまだまだ緑の勢力が勝っている。
人は見たいようにしかものを見ないし、光景を思うがままに切り取って、それを持ち帰って眺め、正しいと信じる。そして、信じたいように、切り取ったものを加工する。人とはそういうもので、それを責められるべきではないのだろう。思い出とはそうやって作られていくのだ。そしてその連続がその人のヒストリーを作る。

どうも俺はシニカルに物事を捉えがちだ。物事というより、もっと正確に言うと、人が関わる事と、その事に関わっている人についてだ。歩いて二分の所に駐車場があるのに池の近くに無理をして車を停める人達、車が来ていても道を広がって歩く婆さん達を見て、民度という言葉を頻繁に使う日本人とは一体なんぞやなどと考えたりもした。
しかし、実際には、俺はこの景色を見て、ひねて暗部を抱えた自分の心が池の光景で洗われるような気がしたし(それで鏡池が汚れたら申し訳ないが)、散策ではしばし清潔な空気を楽しんだ。

用を足して、車に戻り、エンジンをスタートさせるとPet Shop Boys “Domino Dancing”が流れた。

またもや続く。