プットニョスが死去し、まだ四十九日も迎えていないので、悲しみや喪失感はまだまだ自分の中でフレッシュだ。結局、プットニョスは1月初旬のMRI検査で脳腫瘍の疑いが濃いと言われ、それから3週間で命が尽きた。原因はそのとおりだったのだろうとは思うものの、MRI検査の後、組織検査や開頭手術をした訳でもなかったので、それはあくまで可能性に留まる。確定的な事実のないまま、プットニョスを失ったという事実は厳然と存在する。その経過と結果が分断されている不分明さが、悲しみに影を落とす。
しかし、この日記のタイトルでいう疑念とは、そのことについてではない。それは、プットニョスをケアした方法が果たして判断として正しかったのか・俺は飼い主としてやるべきことをしたのかという疑念だ。結果から振り返ると、ケアしても3週間で絶命したのなら、その3週間は、ただ苦痛を長引かせるだけだったのではないか、とも思う。痙攣や息の荒さが現れるとショットの薬を使い、意識が戻っても徘徊があり、常に喉の渇きを訴えて水をほしがりといったそんな具合の中(細心の注意を払ってではあるが)車に乗せて医者に連れて行きしたことは、プットニョスにとって本当に良いことだったのか?
そうは思うものの、それはあくまで死んだ日から振り返ると生じた考えで、検査結果を告知されたその途端に「ハイ、この子の命はこれまでです」と判断して尊厳死を選択するには、プットニョスはあまりにも【生きていた】。徘徊の姿に、もうそれまでのプットニョスではあり得ないのかと思う時もあれば、正気を取り戻して落ち着いていた様子で目を合わせると、それはもちろん愛しいそのままの姿であった。

闘病中の写真は、あまりにも辛く、ほとんどを削除してしまったが、この写真は残っている数少ない写真だ。平和で、あたたかい。ここにあったプットニョスの体温、感触、澄んだ目、それらをその時点で全てなきものにすることは、選択肢としてできるはずもなかった。その時に、プットニョスがより良い状態でいるため、できる限りのことをするという以外には。
しかし、検査後に告知された余命で「早ければ数週間」という言葉は結局、現実になった。その数週間は飼い主のエゴではなかったか。
そして、俺個人の体験としては、急性の脳疾患によって3週間で他界したというこの経過事実は、過去に当時のパートナーを失った体験とラップする。そのことはこちらに詳しく記している(具体的描写ではないが性的な叙述が一部あるので閲覧注意)。あの時も、同じような自責の念はあった。もう少し、何かできることはあったのではないか。そうなる以前にも、何か予防策を講じることはできたのではないか。
でも、あの時も、そしてプットニョスの時も、その時はそうするしかなかった。必死にその時思いつくことはやっていた。しかし、それらを無に帰す結果は、事実として重く、この重みから開放されるには、まだまだ時間がかかりそうだ。あまりにも重く、前掲の写真だけでは気持ちが押しつぶされそうなので、かつて元気だった時、俺もまだ癌の罹患が発覚する前、我が家に何一つ困難がなかった時の写真を一枚載せておく。

プッちゃんや、お前やっぱりかわいかったねえ。
