物、そして物欲にまつわる日記が続いた。たまには思想的なことを記しておこう。もうじき第二次世界大戦終戦80年を迎える。たまにニュースサイトに掲載される戦争に関する体験記を読んだりするが、1967年生まれの俺にとっては、もちろん直接の体験はない。戦争に関する話は、主に母方の祖父から聞いた。そのことは以前このサイトのどこかで記したが、聞いて記憶にあることをまとめて書いておこう。
父方の祖父も俺が中高生頃まで存命だったということは、戦争体験を聞ける存在であったはずだが、そちらからは一切戦争について聞いたことがない。定年までは大手紡績会社に社員として勤めていた。何らかの事情で兵役免除だったのか、忌避したのか、それとも徴兵されて生還したのか、それもわからない。とにかく、一切話を聞かなかった。穏やかな人だったが、それは戦中の記憶を全て押し隠して忘れるためだったのか、聞こうと思えば聞けたはずだが、自分からそのことについて、俺に話したことはなかった。俺も聞こうと思ったことはない。
母方の実家には夏、父方の実家には正月に帰省することが多かった。父方の実家に規制した時は、父の兄弟が多かったせいもあって賑やかで、正月祝いのムードもあって、そうした話がのぼる機会はなかった。そして祖父はそのまま他界した。父方の祖母もまた、戦時中の話は一切しない人で、その種の話をしようとする雰囲気はなく、そもそも少し距離を感じるような人だった。そんなに孫がかわいいと思えるタイプではなかったのかもしれない。そして父方の祖母も他界した。父方の祖父・祖母とも、後述の母方の祖父母に比較して交流は淡白で、享年・命日の記憶もないが、当時そこそこ天命と言ってもいい位の年齢で死亡したことは覚えている。
さて、ここから先、祖父・祖母とは、母方の祖父・祖母のこととして書く。信州の山深い村(旧楢川村 今は塩尻市に併合された)の宿場町にあった祖父母宅には、毎夏避暑を兼ねて盆休み頃に尋ねていくのが習慣だった。盆踊りの歌に「夏でも寒い」と歌われる山からそう遠くない場所だ。

そんな時期に帰省するので、終戦記念日をまたぐことが多く、テレビや新聞では戦争についての報道が盛んだった。70年代~80年代前半のこと、当時の大人にとっては戦争は記憶に生々しいことだっただろう。そうした時期的なタイミングもあって、戦争の話は祖父の口から時折聞かれることがあった。
祖父は内科医だった。東京の医大を卒業した祖父は、医者としての経験を積んだ後、満州に渡った。満州鉄道の嘱託医となり、勤務の送り迎えには黒塗りの車が来たのだという。一般の開拓民に比べ、境遇的には恵まれた労働環境の祖父だったが、新天地満州への可能性を謳った政府の方針に則った人生の選択をし、後に過酷な経験をする幾多の満州渡来日本人のうちの一人だった。
祖父はチチハルにいた。満州国の交通・経済の拠点であると共に重要な軍事拠点であり、対ソ連の防衛前線としての意義がある都市だった。当時隆盛を誇ったそこでの暮らしも、戦局の悪化に連れて環境は厳しくなっていく。逼迫していくなか、1945年8月9日にソ連が対日宣戦布告してから1週間ほどで終戦記念日となるが、そこがチチハルへのソ連軍侵攻で、混乱はピークだった。既に駐留していた軍は機能していなかったという。
事態がいよいよ緊迫して、祖父は居宅から1時間で退避せよと通告される(言われたのが満鉄関係者からだったのか、行政や軍からなのか、別の方面からだったのかは聞かなかった)。その時、祖父には配偶者としての祖母、そして上から長男、長女、次男の3人の子供がいた。齢にして6歳、5歳、3歳だ。その長女が俺の母にあたる。祖母は肺病か何かを患い、もうその時には動けない身だったのだという。ソ連軍は迫る、小さな子供達はいる、妻は動けない。そこで祖父は一つの決断をする。
医者としてとれる行動をしたのだ。妻の薬殺。おそらく、毒薬は持っておらず、塩化カリウム注射か何かだったのだろう。祖父は「殺した」という直接的な表現は取らなかったが、最期に注射をしてそこを子供達と共に急いで引き払ったという趣旨のことを言っていた。その時、祖父の胸にどんな思いが去来したのか知れない。当時、祖父、35歳。
そこから祖父は3人の子供を連れて、ハルビンに移動。おそらく汽車だった。もっと過酷な移動であれば、きっと祖父はその時の様子も俺に話していたことだろうが、そうした話は聞かれなかった。満鉄の医者であったことが有利にはたらいたのかもしれない。ともかく、ハルビンに移動できたのは幸運なことだった。しばらくして、日本へ帰還。帰還は引揚船だったとは聞くが、どこの港からだったのか、どんな船内の様子だったのか、帰港地はどこだったのか等は聞かれなかった。そこから信州の山奥の宿場町で医院を開業することになるのだが、なぜそこだったのか、昔から縁のある土地だったのか等も聞かれなかった。開業してからも男手一つで3人の子供を育てるのは容易ではなかったのだろう、後妻を迎える。それが俺の記憶にある祖母だ。
祖母は、信州の他の土地で女工をしていたのだという。「こんな私を(嫁に)もらってもらって」と謙遜した言い方を祖母はしていた。祖母は祖母で大変だったのだろうと思う。医院の会計等を手伝い、往診で車を出し、家事をしてと、忙しく立ち働いていた祖母の姿を思い出す。なお、祖母のことは以前日記に記した。祖母と先妻の子供達(即ち俺の母や伯父・叔父)との間で特段酷い確執があったようには見受けられなかったが、それでも戦争から引き揚げてきて、いわば山中に落ち延び、厳しい時代を生き抜かねばならなかった境遇にあっては、子供達にとっては親からの愛情は不足だと感じられたようだ。ともかくも祖父は、戦禍を免れ、残りの生涯をそこで送ることとなる。
幸い、祖父は経済的には自分の生活を立て直し、母が高校に通う頃には、お手伝いさん付きで松本に一人暮らしさせる等し、3人の子供全員を大学に行かせることもできたが、それまでの甚大な努力は知る由もない。基本的には労苦をものともせず、不言実行を美学とする、明治生まれの寡黙な男だった。
その後、山間地域医療に尽くした功績を称えて勲三等紫綬褒章を授章するまでに至った祖父だが、青年・壮年期を戦争と国策に翻弄された経験から、思想的には反体制派であった。リベラル系の新聞を読み、戦争の惨禍を伝える写真誌を患者の待合室に置くなどしていた。そのせいか、天皇のことを「お天ちゃん」などと揶揄していた祖父が天皇に拝謁して勲章を授与されたことについては、3人の子供は冷ややかな目で見ていた。なので、勲章を祖父母以外で初めて目にした親族は、俺が初めてだった。例によって夏に帰省した時に「勲章見るか」と、祖父が俺に声をかけたのだった。普通なら、祝宴の一つでも催されたところだったろうに。
そんな祖父も他界してだいぶ経つ。生きているうちに、もっと色々なことを積極的に聞いておけばよかったと思う。今年も夏が来る。もう祖父母のいない信州には帰省しない。が、夏が来るたび、祖父の戦争の話と、祖父母の山中での生活の有り様を思い出す。
