俺に抱かれて夜寝するある日のプットニョス

プットニョスに捧ぐ


プットニョスは昨年末に発作を起こして以降、治療してきた。が、その矢先、1/20の朝に息を引き取った。波はあったものの、直近4日ほどは調子がまずまずで、「これならあと数ヶ月は普通の老犬のように穏やかに過ごしていくこともできるのではないか」とさえ思えるほどだった。

1/20の朝も、普通に目覚め、フードも食べた。パートナーによると自分で所定の場所でトイレもできたらしい。が、その後吐いて、息が荒くなり、クレートに伏せていたところ、その息がだんだん弱くなり、これは朝一番に病院に連れて行かねばならないかもと、支度をしつつ様子を見ていたら、息が止まった。一旦止まった後、2分ほどして2回、間隔を空けてふぅっと小さく息を吐き、それが最期になった。午前8時5分。

姿はきれいで、顔もまるで昼寝でもしているかのように穏やかだった。さすがに痩せはしていたが、毛もまだつやつやしたまま、良い手触りだった。

緊急事態で病院預けの間に亡くなるケースも珍しくはないなか、最期を家で見届けられたのはよかったのだと思う。ペット葬儀の会社に連絡して、その日の夕方には骨になり、骨壷に収まって、今骨壺は書斎にある。

プットニョスが我々の生活にもたらしてくれたものは、有形無形、計り知れない。我々にとって初めての犬であり、愛しさは特別なものがあった。無論、後発犬のノアノアも大切しているし、大切なことに変わりはないが。

発作を起こすもっと前から、だんだん年老いてきたプットニョスを見て、プットニョスが生涯を終える時のことは、考えていた。いくら飼い主がそばについていようとも、死にはたった一人で立ち向かわねばならない(普段犬を擬人化することはしないが、ここでは『一人』と書かせてもらう)。暗く、果てしなく、大きく、そして当然ながら未体験のそんな途方もないことへの対峙を、我々に先んじてやってのけるだろう様子を目にした時には、俺はそのことから学ばねばならないと思っていた。そして、そのとおり、プットニョスはそれを目の前でやり遂げた。お手本ともいえるプットニョスの尊厳ある崇高な威容に、敬服している。

犬に感謝だとか敬服だとかは、おかしなことだろうか? 俺はそういうことはままあることと思う。犬にとって人は大部分では庇護者だったりするが、人にとって犬は家族であり、パートナー。そんなことを、最期まで教えてくれる。否、姿がなくなって以降ですら、様々に気づかせてくれる。そこに感謝や敬服があっても、むしろ当然ではないかと思う。

こうして冷静に文章を綴っているが、やはり時折、エモーショナルになる。プットニョスの物は、なるべく早く処分することにして(パートナーもその意向だ。生前の物がなくなったところで、犬との絆は心の中にあり、滅失毀損したりはしない)、今日、物をまとめていたのだが、散歩の時に履かせていた靴や、既存のがくたびれてきたら新しいのにしようと思って買って結局着せることのなかったジャケット、そうした物を手にするたびに目は潤み、耳の中でゴロゴロと鳴り始めの雷のような音がした。

前に記したとおり、このサイトには、犬との写真をあまり掲載していない。プットニョスの写真を数カット、ここに少し載せておく。

このブログには息を引き取ってからの写真は載せない。上記で言ったように、犬は崇高で、プライドのある生き物だ。なので、キービジュアルとしては、生前のプットニョスと俺の写真を載せておく。

俺に抱かれて夜寝するある日のプットニョス
俺に抱かれて夜寝するある日のプットニョス

プッちゃんや、ありがとう。プッちゃんはきっと天国にもう着いていることだろうが、飼い主の俺は、過去の所業からしてきっと地獄行きだ。だから、もう会えない。だから、上の写真は、同じくらい大好きだったパートナーとでなく、俺のにしておく。パートナーとノアノアはそのうちだけど、天国に行くから、また合流しておくれ。それまで、のんびりな。

2件のコメント

  1. プッちゃん、亡くなられたんですね。御愁傷様でした。最近の日記を読んでいて、復活されたと思っていました。なんて、書いてよいか分かりません。

    1. はい、我々としても突然のことで、この事実に圧倒されています。が、生涯を通じて愛してやり、一緒に生きられたことを誇りに思います。

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