公園で枝を齧るノアノア。

所謂ペットロスと、ノアノアとのこれから


どうやら俺は自分で思っているより打ちのめされているらしい。プットニョスの死によって。平気な様子で平常通り振る舞おうと、パートナーに冗談を言ってみたり、仕事や住み替えに必要な事々をこなしてみたりしていて、実際にできてはいる。しかし、パートナーに言わせると俺は怒りっぽくなったらしい。

空虚な気持ちがする。何を食べても、その時においしいとかおいしくないとかの判断はつくが、おいしい物を食べても満足が行かない。何かを食べたいがそれが何か分からない時があって、無為に冷蔵庫や食料の入った引き出しを開けてみる時がある。気づくと深いため息をついている。所謂ペットロスなのだと思う。プットニョスの死の直後よりも、今になって虚しいと感じる気持ちが大きい。パートナーはいつもどおり仕事に忙しく(パートナーはパートナーでペットロスに耐えているが、ここでは俺の様子のみ主に記すことにする)、今日も出張に出ている。家にいると、けなげなノアノアが一緒にいるにもかかわらず、気持ちが落ち込むというよりも、空疎な、感情に穴の空いたような自分であることを自覚する。

1週間ほど前、死後初めて、プットニョスが夢に出てきた。俺がダイニングの窓辺で歌っていると、それに気づいたプットニョスが、廊下から近寄ってくるという夢だった。いつもしていたように、少し頭を下げてぽつぽつと歩いて来、少し触れて撫でてやったところで目が覚めた。夢に出てこなかったら出てこなかったで寂しいし、出てきたら出てきたで、目覚めてもういないと思うと、それが悲しい。どうしようもないのだが。

次にプットニョスを夢で見たのは数日前。寝室にいる俺をダイニングでノアノアと2頭して待っている。プットニョスを見るとひどく痩せていて、まっすぐこちらを見ていた。

こればかりは時が解決するほかないだろう。俺は俺で仕事が忙しく、普段在宅仕事だが、職場にもちょくちょく行っている。しかし、忙しさはこの空虚さを埋めてはくれない。そういうものだ。プットニョスの物は、大部分を処分してしまった。遺された物を見るのは悲しい。住み替えも近く、思い出は大事に携えていくにしても、使わなくなった物・使うつもりでそのままになった物を持っていっても、新居での生活が叶わなかった無念の思いがそれらの物に顕現されるだけなので、残さないことにしたのだ。

プットニョスの生前の写真を見るのは辛くない。さすがに、変調を来してから記録で撮った写真は見難く、大部分は削除してしまったが、それまでの写真は、愛らしく、プットニョスとの生活が幸せだったことを思い出させてくれ、ただただ懐かしい。写真を載せようかと思ったのだが、一人で見る分には悲しみに流されることなく平気なのに、日記に「今はいない」プットニョスの思い出として載せようとすると、感情がそれを妨げてしまう。他界した時の日記には載せられたのに。まだ今は、自分の胸の中にしまっておく方がよいようだ。
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