短編小説『朝の紅茶』


うちに泊まった男には、朝、紅茶を入れる。別に特別なサービスというわけではなく、俺が朝紅茶を飲みたいと思うからついでにというだけなのことなのだが。「どのお茶がいい?」と聞くと、遠慮なのか、こだわりがないのか、大体「なんでも」という答えが返ってくる。なので、そういう男にはシトロンで風味付けした緑茶とか、ラプサンスーチョンなんかを出す。飲むと大抵、怪訝な顔をして、「これ何?」と聞いてくるが、そう聞いてくる輩はお茶に興味もなければ、聞いて返ってきた答えを覚えておこうとする意欲もまたないので、「変わってるでしょう」とだけ答えることにしている。

今朝の男にどれにするか聞いたら、流しの上の棚に並ぶお茶の缶を見渡して
「『ウェディング・アンペリアル』かな。朝から香りが甘すぎかもね」
と言われた。へえ、と若干驚いた。スタンスミスを履いていて、下着も含めてごく普通のカジュアルブランドの服を着ていた男から、そんな答えが返ってくるとは思わなかった。しかも、imperialをアンペリアルと読むとは。なので、いつもより気を遣っていれた。飲む相手がお茶に頓着しないにしても、そのお茶を自分も飲むということもあるし。

飲む前に男は、紅茶を注ぐ前に冷たいミルクをカップに少し入れてくれるように俺に頼んできた。「フランスの紅茶をイギリス式で飲んでもいいよね」と言いながら。甘い、キャラメルとチョコレートの混ざったような香り。しかしもちろん、液体は甘くない。音楽をかけない白い部屋の空間を満たすものは、紅茶の香りだけだ。うちには、装飾的な物は置かないことにしている。

4、5分かけて男は紅茶を飲んだ。その間、ほとんど話はしなかった。俺は、自らアクションするよりも、まずいつも人の出方を見る方が多い。だから、相手がしゃべる気がなければ、その間、会話は交わされないことになる。自分から気を遣って話しかけてろくなことはないというのが、こうした一夜の経験を重ねて学んだことだ。俺から始めた会話では、バカな答えが返ってきてうんざりするか、会話のための会話として俺が選んだトピックがありきたりすぎて、自分自身がバカに思えてくるかのどちらかだ。いずれにせよ気詰まりに帰着するから、自分の首を絞めるのはやめたのだ。

紅茶を飲んだカップを置いて、男は「ありがとう。おいしかった。じゃあ、帰るね」と言い、玄関に向かった。こうして名も知らぬ男が俺の部屋を後にする時、自分の空間にいる他人を扱う気遣いから開放されてほっとする気分と、名残惜しい気分との、奇妙な同居を感じる。連絡先を聞こうか聞くまいか。それともまた別の夜、あのバーに行ったら遭遇するだろうから、聞くまでもないか。

「紅茶が好きなら、今度遊びにおいでよ」

靴を履き終えた男が不意に名刺を差し出した。ティーサロンの名刺で、コーディネーターの肩書があった。最寄り駅の、南口からすぐにある店の名だ。そこにティーサロンがあることは前から認識していて興味もあったが、北口側にあるうちとは反対だったので、行ったことがなかった。
「じゃあ、また」
と言いながら男がドアを開け出ていくのと入れ違いに、朝の空気が入り込んできた。その中に、玄関先に咲く、橘の薫りがした。

(完)