星を継ぐもの
(★★★☆☆ 星3つ)
小説自体は文句なくいい。秀逸だ。なのだが、星3つとした。ジェイムズ・P・ホーガンのことを調べていて、どうしても受け入れられない事項があって、そんな人の作品を「作品は作品」としていい評価をしていいものなのかどうか、悩んだ結果だ。本について触れるのは後にして、まずそのことから。
その受け入れ難いこととは、ホーガンが歴史修正主義に賛同し、ホロコーストはなかったとする説を支持していたこと。そして、エイズがウィルスによって引き起こされるものではないという説(エイズウィルスの存在を否定する説)も支持していたこと。内容に賛同するというのも呆れるが、支持の理由が、「勝利者によって書かれた歴史が言うことより、学問的かつ科学的で説得力がある」からというのだ。敢えてこの言葉を使うが、「理系バカ」の最たるものだと思う。
学問や論理は対象物の真理の探求に充てられるツールであり、それに尽きる。そのツールに幻惑されてそれだけでその目的を支持するのは、いわば「殺戮装置が能率的で機能美があるからそれが使われるジェノサイドは正しい」とでも言うようなものだ。こんな人であるとは露知らず読み進めて、3分の2ほども進んだところで、ホーガンのエイズウィルス否定説支持や歴史修正主義への賛同を知ってしまったのだが、マッドな背景を持つ人の作品を、作品自体は素晴らしいからといって高評価していいものか、読みながら複雑な気分がずっとしていた。
さて、そんな複雑な心境で読み進めた『星を継ぐもの』だが、作品にフォーカスすると、「そんな謎を仕掛けておいてどうやって収拾をつけるのか?」と思わせるような奇想天外な設定も興味深かったし、科学や生物学、地学の「そこなら嘘をつける」と思える論理の間隙をうまく網羅して物語が組み立てられていることも、惹きつけられるものがあった。そしてこれが1977年に書かれたということを、2010年現在から振り返ると、ものの見事にネットワークコンピューティングの世界が描かれていることに、筆者の先見の明を感じた。(ことあるごとに登場人物が煙草を吸うのは、70年代の遺物だが)
最近はSFでも派手なアクションがつきもので、戦闘と死亡シーンがなければ成り立たないような感があるが、人が死ぬエピソードは織り込まれていても、その死亡そのものを見せものにすることもなく、冷徹な論理の推進が物語そのものであるのが、またいいところだ。暴力的な、あるいは血なまぐさい描写が苦手な人も安心して読める。この作品は3部作となっているが、この作品自体で一応のけりがつけられているのもよいところ。
しかし兎にも角にも、ホーガンの論理唯一主義からくる、実生活上の支持説、それだけは人間としていただけない。3部作の続編も読んでみようとは思うが、そんな説を支持していた者に印税が入るということも含め、本当に複雑な心境だ。ちなみにホーガンは今年(2010年)7月に死去している。