(『ダークサイド I-7 ゲーム・オーバー』からの続き)
母という病理
逮捕後、父はすぐに勾留を釈かれて職業不詳の生活をし、母と妹は東京で暮らしていた。妹は幸い職を得て暮らしていたが、母といるのは様々なプレッシャーだったようだ。母の生活が妹にかかっていたし、それでも母は相変わらず「あなたは私に従うべき私の子供」という強気な姿勢で彼女にあたり、彼女に結婚相手が見つかると、自分を女として超えることは許さないとでもいわんばかりの態度を取った。それから混乱を乗り越えて妹は結婚し、夫と新居に移り住むのだが、その前に重大なことが起こる。(後述)
パートナーTの急逝
俺は俺で、人生最大にして急な不幸が起こった。パートナーTが、エイズ脳症で急死したのだ。Tはかつて俺と同居していたが、Tの勤めていた会社が破産して一旦実家に帰ったものの、「俺が東京にいて頑張っているから」と、また東京に帰ってきていて、バイト先の寮で暮らしていて、俺とまた一緒に住もうと約束した矢先だった。
俺のもとには、Tの思い出と、最初の同居時に奮発してすべて俺がクレジットカードで買った住まいの品々の未払いローンと、緊急入院の時の負担金と、虚しさだけが残った。いろいろ買ったが、Tの物は、Tが一旦実家に引っ込む時にTが処分したり家に持って帰ったりしていたし、再びTが東京に戻ってきた時にTが持っていた物も、いっさいがっさいTの兄が引き取って、Tの遺体とともに実家に運んでしまっていた。
俺は鬱になり、数カ月間は頑張って会社に通い、通常勤務を続けていたが、ある日、いつ電車に飛び込もうかと、地下鉄東西線のホームを小一時間もうろうろしていたことがあって、おかしいと自己判断し、療養のため会社を休職した。休職は3ヶ月だったが、その間覚えていることがほとんどない。まさに茫然自失の状態だった。
それまでボーナスを幾度か母に渡し、引越しを繰り返ししていた俺は金銭的に余裕がなく、休職の間、傷病手当だけでは、微妙に食えそうになかった。そこで、母に金を借りようとした。母は大阪から出る際に、手元に金をいくばくかかき集めて持ってきていた。そこで、1ヶ月5万×3、復職時には全額一括で返す約束で借りようとしたが、もちろんそんな母が快く金を貸すはずもなかった。パートナーの死の直後で鬱になっていることは一顧だにせず、
「私は今大変なのよ」
との言葉を皮切りに、さんざん俺に文句を言った。そこで、「くれと言うんじゃないすぐ一括で返す、俺がボーナスを渡した時はあげたのであって返せとは言わなかったじゃないか」と言うと、母は言った。
「あら、そうだったかしら」
喪失と茫洋
死は人にインパクトをもたらすというのは、頭では分かっていても、当事者になるまでその本当の意味は分からない面がある。パートナーの死はそこまで共有したことの終わりというだけでなく、未来を失うことでもあった。圧倒的な喪失感、現実の茫洋とした浮遊感、これからの不透明が一体となって、自分自身をすっぽりと覆って世界を見えなくしていた。
そしてそのことは、自分自身も見えなくしていた。それでも休職期間を経て何とか復職し、抗うつ剤を飲みながら会社に再び通い始めた。しかし、当時本社(本社は長野)からの出向の形で東京の販社に勤めていたところ、機能を長野本社に吸収することになったので長野に転勤してくれという話が出た。
後から思えば、そんな社員は首を切ってしまえばいいのに、温情的な扱いをしようとしたのだろうと思う。しかし、山の中の会社に行くことは、ゲイライフを捨てることになる。俺は断り、会社を退職した。
そして次の職場を求めて、3ヶ月間また働かない期間が生じることになるのだが、この間は退職金替わりの転職補助費が出ていたので、暮らしに問題はなかった。(在職期間が規定の期間よりも短かったので退職金は出なかったが、退職する人の次の職場斡旋をしたり就職支援のプログラムを実施する制度があって、その代わりに転職補助費をもらうこともできたので、俺は後者を取った)魂が抜けた抜け殻のような自分には、かえってこの期間は休養のため好都合だった。
突然の苦い勝利
働かず、しかしもちろん求職活動はしつつ暮らし、次の職場の面接の返事待ちをしていた、7月のある暑い日の夕方。今でも覚えている。新宿駅のホームから南口へ上るエスカレーターに乗っていたら、携帯が鳴った。母からだ。電話を取ると母は言った。
「落ち着いて聞いてね。『あの人』、死んだのよ。」
父が逮捕されてから、母も妹も、「お父さん」とは呼ばず、「あの人」と呼んでいた。俺の胸中ではどう呼んだところで自分の父であるという事実は消せないと思っていたので、こだわらないでいた。それはともかく、父は死んだのだ。
「今日ね、『あの人』の裁判だったのよ。朝電話したら、『裁判所に出廷する』って言ってたんだけど、裁判所には行かなくて、家の近くの踏切で、快速電車に飛び込んだらしいの」
そのことに対して、どう返事をしたかは覚えていない。通夜と葬儀がある父の暮らしていた兵庫県芦屋市のマンションへ、初めて赴くことにした。
父の生前のよすがを見ても、思慕の情もなければ、嫌悪感も湧かなかった。職業上の権威を失ってからの父は俺にとって、ホラ話を信じて怪しい稼業をしている単なる夢想家にすぎず、無価値な存在になっていたからだ。そして、起こした事件の大きさを考えると実刑もあり得たので、刑務所に入って服役出所後、そのまま食い扶持にも迷ったら厄介な存在になるな、とも考えていた。
その一方で、俺は母からの知らせを聞いた時に「勝った」とも思った。俺を押しこめ、レールに乗せようとし、ゲイたることを頑として根底では認めなかったあの存在が、自ら死を迎えたことで、勝負は生きている俺に軍配を上げた。少なくとも、その時にはそう思えたのだ。
父が自殺を決した時に何が決定的契機となったのかは分からない。が、俺は、将来そのままいけば厄介者になるだろう父がいなくなってくれればと、どこかで願っていて、その思念が父を踏切まで連れ出したことの一因になったやもしれぬ、という非現実的な考えさえも頭に浮かんだ。
確執と暗闘がそんな形で集結したことは、きれいではなかったが、ともかく終わったのだ。そして俺が終わりを「勝った」と感じたのは、確かなことだった。